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《邪馬台は「ヤマト」と読む》「邪馬台国はどこにあったのか論争」に歴史学者が画期的新説

2024/05/02
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邪馬台国はどこにあったのか――。古くから続けられてきた論争に決着が付かない理由は、『魏志』倭人伝に記された地理的情報にこだわっていたからだと、歴史学者・桃崎有一郎氏は指摘する。そして、あることに注目すると結論が見えてくるという。

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 いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか、という議論)は、詰んでいる。

 当時は文字があまり普及していなかったので、「ここが邪馬台国だ」と書かれた遺物が出土する可能性は期待できない。遺跡や遺物は、複数の解釈を許すものしか出土せず、最後は文献の裏づけを援用しなければならない。

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桃崎有一郎氏 ©文藝春秋

 ところが、その文献史料での議論が詰んでいる。3世紀に成立した根本史料の『魏志』倭人伝には、「どこから、どちらへ、どれだけ進めば邪馬台国へ着く」という行程記事が明記されている。その通りに進めば邪馬台国に着くはずなのだが、着かない。現在の地理や、後代の遺存地名や、ルートの合理性などを考慮して、朝鮮半島から伊都(いと)国(後の筑前国怡土(いと)郡。今の福岡県糸島(いとしま)市)までのルートには疑問の余地がない。ところが、その先のルートの記述が曖昧で、どこでも好きな場所へ到達するルートに読めてしまう。そのため、誰かが「これこそ『魏志』倭人伝の正しい読み方の決定版」という説を発表しても、山ほどある「決定版」が一つ増えるにすぎず、議論が混迷を深めるだけだ。

 これまでの議論は、〈『魏志』倭人伝には必ず、史実と合う一つの正しい解釈があるはずだ〉という楽観的な大前提の上になされてきた。ところが最近、古代中国史家から、それは希望的観測にすぎない、という指摘が出された(渡邉義浩説)。『魏志』倭人伝を含む古代中国の史書の地理情報は、著者が信じた(信じようとした/読者に信じさせようとした)教条主義的な儒教の世界観に基づいており、記述の根本が机上の空論なので、そもそも現実の地理情報として読めるという発想が誤りだ、と。全く筋が通っており、これに対する有効な反論は、恐らくできない。

 私もこの議論の門外漢だが、外から見ていると、『魏志』倭人伝の解釈で争う限り、邪馬台国論争に解決の見込みがないことは明白だ。解決するには、『魏志』倭人伝を離れて決め手を見つけるしかない。ただし、それを見つけるのは、門外漢の私ではない。そう思っていた。

 ところが、自分の研究を進める中で、偶然、その決め手らしきものを見つけた。古代中国の《礼》という文化が、日本列島の文化にいつ、どこを通って、どのように影響を与えてきたのかを追跡していた時だ。

 私が見つけたのは、古代中国では一般的な法則である。その法則は日本にも導入されたが、そのこと自体にも、それがどれほど重大かも、気づいた専門家はいないようだった。『魏志』倭人伝の行程記事に微塵も依存せずに、邪馬台国論争を解決へ導ける文献史料。そのような、まず見つかるまいと思っていた鍵が、もしかしたら私の手元にある。

 その話を雑談で本誌の編集氏にしたところ、原稿化を強く勧めて下さった。とはいえ、その情報が鍵として使えることの証明は煩雑で、本誌のような雑誌の読み物として公にできる分量や内容ではなかった。私はかなり悩んだ末、証明は学術論文として急いで発表し(末尾の参考文献参照)、また一般向けの丁寧な紹介は、著書として書ける機会を待つことにした。本誌では、その新説のあらましと結論を、ごく簡単に紹介させて頂きたい。

邪馬台国論争最大の誤り

 邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤りは、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことだ。学校教育で「ヤマタイ国」と誤った読みを教えてきたのは、実に理解に苦しむ。「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは新井白石あたりに始まるようだが、それが正しい証拠は、ただの一度も示されたことがない。