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「ヤマト」の漢字表記の変遷

 一方、「倭」については、興味深い使い分けが見られる。『日本書紀』には、飛鳥時代の朝廷の公式見解として、日本で書かれた本文と、外国(中国・百済)の典籍を引用した注の文章がある。そのうち本文では、「倭」の9割以上が「ヤマト(中間層・最下層)」を指した。ところが、注に引用された中国・百済の典籍ではすべて、「倭」が最上層の統一王朝全体を指した(井上秀雄説)。『日本書紀』の本文自体には、〈「日本」は国号。「倭」はそれ以外〉と書き分ける、ほぼ一貫した方針があったのに対して、外国の典籍には〈「倭」は国号〉という、本文とは異なる一貫性があって、両者で食い違っていた。この食い違いも、後で重要な鍵になる。

 なお、「倭」の字を、卑弥呼に近い時代の中国人も「ワ」に近い発音で読んだが、その頃、訓読みはまだ存在しなかった。つい「倭」を「ヤマト」と読んでしまいたくなるが、訓読みの発明は、3世紀前半の卑弥呼の時代よりもかなり遅れることを念頭に読み進めて頂きたい。

 奈良時代の半ば以降、「ヤマト(中間層)ノクニ」は「大国」と書かれたが、それ以前は「大国」と書かれた。和銅6年(713)に出された「地名は好ましい漢字二字で表記せよ」という朝廷の方針=“好字二字令”の影響で、「倭」が〈穏和・調和〉を意味する「和」に書き換えられたのである。従来、「ヤマトノクニ」は「大倭国」と書かれたが、天平9年(737)に「大養徳国」と表記を改められ、10年後にまた「大倭国」に戻された。要するに、「ヤマトノクニ」の漢字表記は、「大倭国」→「大養徳国」→「大倭国」→「大和国」と変遷した。

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 これらの固有名詞の部分から、すべてに共通する「大」の字を差し引くと、「倭」=「養徳」=「和」という等式を導ける。「養徳」は「徳を養う」と読め、当時の日本で支配的だった儒教の《礼》という価値観に沿って、好ましい漢字に置き換えられた宛字だ。そして、「養徳」の二字で「ヤマト」の音写にもなっている(ク)。とすると、この等式にあてはめて、「倭」=「養徳」=「和」=「ヤマト」という関係を導ける。

 大和・大倭・大養徳の「大」は発音されない字(“もく”という)で、あってもなくても「ヤマト」という発音は変わらない。「倭国」で「ヤマトノクニ」を表せるし、実際に藤原宮(藤原京の天皇の宮殿)で出土した木簡には、行政区分としての「ヤマトノクニ ソフノコホリ」を「倭国、、所布評」と書いたものがある(こおりは後の郡のこと)。これに黙字の「大」の字を付したのは、好字二字令に沿って、“偉大なる”を意味する美称の「大」を「倭(和)」に付加したからだろう。

「大」も「養徳」も「和」もすべて美称であり、地名としての本質とは関係ない。「ヤマト(区分)」という地名の本質に関わる漢字は、それらの黙字や宛字をすべて取り去った後に残る「倭」である。

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本記事の全文は「文藝春秋」2024年3月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています(桃崎有一郎「画期的新説 邪馬台はヤマトである」)。