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最初にこの店に来た時のことを思い出していた

 ミートソーススパゲティを待っている間、私は眼下の山手線が行き交うのを見下ろしていた。というのも、前を向くと、2メートルくらい前方に座っている女性客と目が合ってしまうからである。女性は特に、何をするというわけでもなく、黙って座っていた。私より年上の、上品な身なりの女性だった。

 目白駅の周辺は、コーヒーショップのチェーン店や、昔ながらの喫茶店もそれなりに多い。いわば、激戦区である。CAFE HAGIは、駅近くではあるが、線路沿いの小さい路地の雑居ビルにあり、しかも、3階だから、一見さんはほぼ入ってこない。だから、萩さんは私の顔を見るなり、「オレと知り合い?」と訊いたのだろう。

 ミートソーススパゲティとアイスコーヒーが運ばれてきた。

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「はいお待たせ」
「ありがとうございます。いただきます」

 私はそれを口元に運びながら、最初にこの店に来た時のことを思い出していた。野球談議で盛り上がっている人々を残し、一人で先に帰ろうとすると、萩さんも店の外に出た。

「今日はありがとうね。よかったらまた来てね」

 店の看板を仕舞うようなしぐさをしていたが、あれは私を見送ってくれたんだな、と思った。

 私はミートソースパスタを食べ終え、しばらく、スマホをいじっていた。テレビから昼下がりの情報番組の音が小さく流れている。ここでは時が止まっているような感覚だった。窓の外では、相変わらず山手線の線路の上を走る車輪の音だけが鈍くこだまして聞こえていた。

 1時間半ほど滞在しただろうか。そろそろ店の外に出ようと思った。萩さんに代金を渡した時、口をついて出た。「また来ます」。萩さんは、「はい、ありがとう」と短く返してくれたと思う。

北別府さんの訃報を最初に伝えることができたのは私だったかもしれない

 6月中旬だというのに、店の外はさらにうだるような暑さだった。私は休暇中とはいえ、仕事が気になり、パソコンを拡げられるカフェを近所で探した。スマホを手に地図アプリを繰っていたその時、野球のニュースアプリの通知が届いた。

『広島カープの元投手・北別府学さん死去』

 かねてから療養中だった北別府学さんが逝去されたのである。65歳、あまりにも若い死であった。

 私はいまでも覚えている。小学生の頃、カープがV2を達成した1980年のプロ野球選手名鑑で北別府さんの欄にあった紹介文を。「高校時代、毎日、片道20キロの山越えの自転車通学で脚力を鍛えた」。プロ通算213勝を挙げた頑丈な身体を持つ北別府さんの生命を病はいとも簡単に奪ってしまったのだ。

 一方で、私は自分のタイミングの悪さを少し呪った。萩原さんは1976年にカープに移籍してきた。北別府さんは1975年ドラフト会議でカープから1位指名を受け入団した。二人は年齢こそ10歳ほど違うが、「同期入団」である。萩原さんは移籍直後、主にカープの若手選手が住まう「三篠寮」に住んでいたというから、同じタイミングで北別府さんも入寮しているはずだ。

 二人はカープの1975年の初優勝こそ経験していないが、1979年・1980年のセ・リーグ2連覇、日本シリーズ2連覇を経験している。同じ釜の飯を食い、同じ苦難と歓喜を味わった者同士である。

 もし、私があと30分ほど、店に長居していたら、店の中でスマホで北別府さんの訃報を目にしていた。萩さんは仕事中で、スマホを頻繁にチェックしないであろうから、もし私がその場にいれば、北別府さんの訃報を最初に伝えることができたのは私だったろう。もしかしたら、萩さんの口から北別府さんとの思い出話の一つでも聞けたかもしれない。私はスマホを手に地団駄を踏んだ。

 だが、私はふと思った。これでよかったのではないかと。北別府さんの訃報を私が萩さんに伝える、それは出過ぎた真似というものだ。

 萩原さんと北別府さんの間にどのような親交があったのかはわからない。だが、10歳も離れているとはいえ、同じ屋根の下で寝食を共にし、グラウンドでは苦楽を共にしたチームメートである。訃報を耳にしたら、様々な思いが去来するかもしれない。

 あの時、私が店に残っていたら、萩さんの気持ちを土足で踏みにじっていたかもしれない。そう思うと恐ろしくなった。神様か仏様かはわからないが、おまえ、そんな愚かなことはするなよ、と釘を刺してくれたのだ。

 現在も、CAFE HAGIは営業中である。これを読んで、萩さんの顔を見たくなった方がいたら、目白駅近くの小さな喫茶店に足を運んでほしい。

 店に入るなり、萩さんはあなたの顔をまじまじと見て、「オレの知り合い?」と声をかけてくれることだろう。

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