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完璧で潔癖な選手像を求める「感動をありがとう」という欲望
東京大会では選手たちを少しでも重圧から解放しようと、メダル数の目標を出すのを取りやめる国も出てきた。オーストラリアは東京大会でメダルの目標数を掲げることを取りやめた。幹部は「余計な重荷を増やしたくなかった。目標数がなかろうと、アスリートはみんな勝利を目指すものだ」と説明。
一方、日本は金メダル30個を目標に設定していた。このあたりにも宮田選手の件を考えるヒントがありそうだ。
《JOCと日本体操協会がそれぞれ定めている規定には、「代表としての自覚」や「模範になるように」といった文言が含まれている。今年4月の全日本個人総合選手権や、5月のNHK杯で宮田は「エースにふさわしい演技を」と繰り返していた。》(サンスポ7月20日)
喫煙や飲酒の禁止という行動規範だけでなく「模範になるように」といった規定。完璧で潔癖な選手像。そんなの五輪選手だから当たり前だろという声もあるかもしれないが、それは「感動をありがとう」という見る側の勝手な欲望とセットになっていないか。メディアが当て込んでいる五輪報道の美談と地続きになっていないだろうか。
むしろ前回大会で五輪選手が声をあげる姿が注目されたからこそ、もう選手に対しての超人扱いや模範になる姿を求めることはやめ、当たり前だが、同じ人間として見たほうがよい気がする。
宮田選手が再起してまた演技を見せてくれたら、むしろそちらのほうが今の社会に合う等身大の「模範」になるのではないか。つまずいた人にもやさしい社会でありたいと思う。