渡邊社長が59歳で死去…「会社を守りたい」というマインドに変わった
渡邊はそれから数年後、1987年に59歳で亡くなった。渡辺プロを「帝国」と呼ばれるほど一大勢力にまでに築き上げた“大黒柱”の喪失は大きく、長らく会社を支えてきたスターや社員も続々と去った。社内に活気が失われ、中山たちは先行きに不安を覚える。
そんななか、バラエティ班を統括するベテラン社員から、「このピンチを逆にチャンスと思え。俺たちで、渡辺プロを何とかしてやろう!」と発破をかけられた。それまで中山たちは、歌手や俳優といった会社の主流ではないゆえ、落ちこぼれまいと生き残ることにのみ必死だったが、この言葉で「会社を守りたい」というマインドに変わったという。
社長の死後、渡辺プロへの風向きはあきらかに変わり、中山がオーディションなどに行くと昔の社長への恨みを理由に門前払いされることもあった。手のひら返しをする人たちを見返してやろうと、彼はマネージャーにもっと仕事を増やしたいので売り込んでほしいと頼んだ。
しかし、これに対しマネージャーの返事は「売り込みはしない。いま出ている番組で頑張れ」。頑張る中山を誰かが良いと思えば、きっと向こうから声をかけてくれるのだから、それを待てというのだ。
90年代には多くのレギュラー番組を抱える売れっ子に
実際、一つひとつの番組を頑張っていると、それを観た別の番組のスタッフからオファーが届く好循環が生まれ、仕事はどんどん増えていった。会社の危機が結果的に中山を飛躍させたのである。
気づけば、90年代には週に10本以上ものレギュラー番組を抱え、まさに売れっ子となる。その一つ、日本テレビの『THE夜もヒッパレ』は、その後増える「芸能人カラオケ番組」の元祖とも言われるが、中山の捉え方は違い、《この番組はきっちり稽古して、完璧なショーをお茶の間に届ける、テレビ創成期から続いた「音楽バラエティ番組」の系譜を受け継ぐ“最後の番組”だという位置づけです》と強調する(『いばらない生き方』)。
音楽バラエティといえば、クレイジーキャッツをメインに日本テレビと制作した『シャボン玉ホリデー』を皮切りとして、渡辺プロが得意としてきたものである。中山のなかでは、自分がその伝統を引き継いだという意識もあったに違いない。もっとも、厳密にいえば中山が芸能界にデビューしたのは、渡辺プロからではない。
群馬県藤岡市で裁縫工場を営む家に生まれ育った彼は、幼いときから人前で歌ったりするのが好きな子供だったという。