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脳裏にはあの「ララバイ」が流れていた

 それは突然やってきた。「宮本に代わりまして、倉本」。心臓が急に激しく動き出して、無意識にこぶしをかたく握りしめていた。代打倉本はいつもと同じように、バッターボックスで、ふっとバットに息を吹きかける。あの、私がショックで夫婦茶碗をすべり落としたときと同じように。ただその姿に目を奪われたあのときの私と、今少しだけ、ファンとしての自覚が芽生えた私が、静かに交錯していた。どちらの私も、私だ。家族との日々に忙殺される私も、ひとりで倉本を応援したい私も、私だ。

 代打で出た倉本が、サードの守備に入る。倉本がお尻のポケットに手を突っ込むたびに、白い粉が小さく巻き上がった。3塁側から、かつてないほど近いその背中をじっと見つめていた。脳裏にはあのララバイが流れていた。

「恋ならば、いつかは消える。けれども、もっと深い愛があるの」

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 私の幸せは、いつも家族の幸せで、家族の幸せは、私の幸せだった。倉本は私に、私だけの幸せを教えてくれた。倉本を応援しているときの私は、生きていた。あのとき夫に言えなかった「ひとりで行きたい」と思った理由。私は、野球を観るときだけは、倉本を遠くで見つめている聖母になりたいから。あなたの妻でも、子どものママでもない、聖母に。ここでだけは、ただ純粋に、倉本の夢を支えたい。たとえその名を叫び、応援歌をうたうことしかできないとしても。

 なんて幸せなんだろう。なんて幸せな地獄なんだろうと思った。試合に勝った喜びをかみしめるのも忘れ、ナゴヤドームの魔法陣を見上げる。魔物が私に微笑みかけた気がしたから。

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