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牟田口は戦後も「弱腰の師団長が悪い」と言い続けた

 保阪 この作戦自体も、一つには牟田口自身の焦りから生まれたものでした。上長にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三中将に「閣下と本職はこの戦争の根因となった支那事変を起こした責任があります。この作戦を成功させて、国家に対して申し訳がたつようにせねばなりません」と言ったといいます。

 もう一つの理由が東條でした。東條は大東亜会議でアジアの解放を決議し、国策としたにもかかわらず、お題目だけに終わっていた。そこに牟田口が「戦えば必ず勝つ。私には自信がある」と、最初は作戦決行を渋っていた東條を精神論で説得。最終的には、インパール作戦がインド独立の後ろ盾になるという政治的判断から、敢行されることになったのです。

保阪正康氏 ©文藝春秋

 新浪 やはりこういった人物を司令官にしてしまう人事の問題ですよね。牟田口も、東條には、期待している自分を切れないことがわかっていたから、確信犯的にやったのでしょう。

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 川田 無謀な作戦に対して、佐藤幸徳、山内正文、柳田元三の3人の師団長が異を唱えていました。

川田稔氏 ©文藝春秋

 保阪 佐藤は補給が皆無だったため激怒して「止まって戦え」との命令を無視して食糧のある場所に独断退去したせいで解任される。柳田の師団は作戦発起後すぐに、中止を上申して解任。山内も病気で解任されます。前代未聞ですね。それでも牟田口は自分の非を認めず、戦後も「弱腰の師団長が悪い」と言い続けました。今でも自分の責任を認められないエリートはたまにいますが、ここまでの人は珍しい。

 楠木 牟田口は「無能」「悪玉」「卑劣」の三冠王と言ってもいいのではないかと思います。

 新浪 やはりトップが責任を取るのは大事なんですよ。終戦時の阿南惟幾陸相は、非常に難しい「戦争を終わらせる」という仕事を全うし、最後に自決した。自決という形がいいかどうかは別の話ですが、責任を取るという意識はあったわけで、昭和陸軍の面目を守った面もある。

 山下 これは阿南陸相が腹を切った場にいた、義弟の竹下さんから聞いた話です。腹を切ってもなかなか死にきれず、長いこと唸っていたので、竹下さんが介錯しましょうかと聞くと、「しなくていい」と。「多くの兵士を亡くす罪を犯した責任を取る。だから苦しみながら死ぬんだ」とおっしゃっていたそうです。