昭和の陸軍を分析すると、日本型エリートの問題点が浮き彫りになる——。経営、軍事、歴史の専門家が、太平洋戦争で露わになった日本型組織の欠陥を語り合った。軍人の愚行を振り返ると、現代に通じる教訓が見えてきた。

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失敗してもなぜか舞い戻る

 保阪 私は服部(卓四郎)と辻(政信)は旧軍のエリートの悪いところが如実に表れている人だと考えています。派閥の引きで出世し、失敗しても責任を取らず、戦後は自分たちの失敗が無かったかのように振舞う。

 楠木 服部と辻は共に陸軍幼年学校出身で、陸士、陸軍大学校を優等卒の俊才でした。服部の方が陸士は2期上ですね。

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 保阪 2人が最初に問題を起こしたのはノモンハン事件です。関東軍作戦主任参謀だった服部は、作戦の積極拡大を作戦参謀の辻と共に主張したところ、ソ連軍の大規模攻勢により大打撃を被ってしまいます。しかし東條の機嫌を取るような報告をすることで、服部は一時閑職に移るも、すぐに栄転しました。

 辻も部下に責任を押し付けました。部下を査問した後、何も言わずにピストルを置いて部屋を出て行った。自殺の強要です。結果、辻も軽い処分で済んだのです。

戦後しばらく逃亡し、国会議員にもなった辻政信 ©時事通信社

 新浪 ノモンハンでは約8000人の兵士が亡くなっています。それでいて東條に気に入られているからと言って、責任を問われない組織はおかしいと思います。緩すぎますよね。

 保阪 1940年に服部は参謀本部作戦班長に就任します。さらにその服部によって、辻は1942年3月に参謀本部作戦課に呼び戻されるのです。同年夏からのガダルカナルの作戦では、戦死・餓死者約2万2000人という大損害を出してしまいます。服部は一旦東條の秘書官になりますが、不思議なことに10カ月でまた作戦課長となった。東條にとって服部は、相当使いやすい人間だったのでしょうね。

 川田 1944年のサイパンの守備作戦を計画したのが服部でした。彼は米軍の戦術や情報をまったく分析せずに、中国戦線での作戦をそのまま適用した。激戦の末、最終的に日本軍は全滅しました。約3万人の兵士が亡くなり、民間人の死者も約1万人だったと言います。

 その結果、東條が首相・陸相を辞め、服部はその後、作戦課長から外されました。

能吏だがトップには向いていなかった東條英機 ©時事通信社

 山下 辻は各部署で厄介払いされている間に栄達してしまったと言われています。ノモンハンの後、支那派遣軍総司令部付になるのですが、そこでも波風を立てた。すると総参謀副長の本多政材(まさき)は、「台湾軍に出して、将来はまた参謀にするか」と台湾軍に行かせた。たらい回しにされている内に、また参謀になったというわけです。

 川田 彼は統制派というか、もろに東條派なので、どこへ飛ばされても東條が目を配っている。だから失敗しても必ず戻ってこられる。

 もう一つ指摘すべき点があります。彼は行った先の上官の行動調査をするんです。弱みを握って、脅すわけではないけれど、「知っているぞ」と匂わせる。だから巷間言われているように、部下に持ちたくない人になるわけです(笑)。