1945年8月17日、ソ連が千島列島北端・占守島に侵攻を開始した。玉音放送後に武装解除を進めていた日本軍は完全に不意を突かれたのだ。ノンフィクション作家の早坂隆氏が「占守島の戦い」の秘話を伝える。

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戦死した連隊長

 その後、戦車はようやくハイマツ林を抜け、草原地帯に出た。敵兵は後退し、攻撃はほぼ止んだ。改めて集合した日本軍の各部隊は、次なる戦闘に向けて準備を進めた。

 やがて戦闘が再び始まった。第4中隊の任務は、敵兵の南下を男体山の麓で食い止めることだった。小田は再び戦車内で機関銃を撃ちまくった。この時は敵がよく見えた。

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「ソ連軍の兵士も勇敢でしたが、中には猟銃を持った者までいました。鴨を撃つような猟銃。正規兵の他に、場当たり的に数だけ揃えられた者たちもいたんじゃないですかね」

小田英孝氏は占守島で戦った元日本兵の一人

 やがて濃霧が出てきて、敵の攻撃が少しずつ緩やかになった。しかし、そのうち、池田連隊長が戦死したという知らせが入ってきた。戦後に記された複数の1次史料によれば、池田連隊長の乗る戦車の側面に1発の砲弾が突き刺さったという。戦車は一瞬にして炎上。池田連隊長は帰らぬ人となった。その後、第4中隊の伊藤中隊長が連隊長の代理役を務めることになった。

「池田連隊長が亡くなり、他の中隊長もそれに遅れるなとばかりに突っ込んで戦死していきました。それで各中隊がバラバラになりかけたんです。そこで伊藤中隊長がまとめ役になりました。伊藤中隊長は普段から『俺は1人の部下も失いたくない』と語るような人でした。伊藤中隊長の冷静な指揮がなかったら、皆どんどん突撃して全滅していたかもしれません。それに伊藤中隊長は島の地形を細かく知り尽くしていました。前から研究していたのでしょう」

 激戦が続く中、やがて砲弾も底を突いた。そこで被弾して停まっている友軍の戦車から未使用の砲弾を取ってくることになった。小田は車長とともに1輛の戦車に近づいた。

「その戦車はエンジンを撃ち抜かれて動けなくなっていて、操縦手もすでに戦死していました。私たちはその戦車から砲弾を20発ばかりいだだきましたが、その時、我が車長が敵弾に撃たれてしまいました。口から血を吐いているので、口の中を見たら舌がちぎれていて。口から入った弾丸が首を抜け、肩から再び体内に入って背中から出たようでした。すぐに救急箱を持ってきて脱脂綿を咥えさせましたが、腰の上からも血が噴き出ている。止血のために包帯でグルグル巻きにして、自分たちの戦車まで運んで乗り込ませました」