以降は小田が車長役となった。やがて伊藤中隊長から、
「一旦、中隊の駐屯地まで戻って負傷者を軍医に預け、代わりに砲弾を積めるだけ積んで戻ってこい」
と命令を受けた。小田の戦車ともう1輛が駐屯地に向けて出発した。
その途次、狭い道に敵か味方かも不明の死体がゴロゴロと転がっている箇所があった。前を走る戦車はそれらを踏みつけて進んでいった。
「踏まれて顔の潰れた死体が、目玉を飛び出させながら、こちらを見てニタッと笑ったように見えました」
さらに駐屯地に向かって進んでいると、1人の尉官に、
「止まれ、止まれ!」
と声をかけられた。その尉官は、
「もう戦闘は終わりの時間だ。これから軍使を送るところだから」
と言う。小田は知らなかったが、大本営によって「終戦後の戦闘行為は、自衛目的であっても18日午後4時まで」と定められていたのだった。第5方面軍司令官の樋口中将は、大本営にソ連との停戦交渉を強く促していた。大本営はアメリカを通じてソ連に停戦を求めたが、ソ連軍最高司令部はこれを拒否した。
占守島で圧勝した日本軍
そんな中で時刻は午後4時を迎え、これをもって現地日本軍は優勢のまま積極的な攻撃を停止。かたやソ連軍も大規模な戦闘を行うだけの戦力はすでに喪失しており、戦況は以後、膠着状態へと入った。
この時、小田は忘れられない体験をする。空き地で休んでいた小田は、ハイマツの陰に倒れていた敵の死体だと思っていたものが不意に動いたのに気がついた。上官が言う。
「あれ生きているぞ。小田、斬ってこい」
「飛びかかってきたら斬りますが、手を上げたら縛って引っ張ってきます」
小田は慎重に近づいた。するとそのソ連兵は小田の気配に気づいたのだろう、いきなり向き直って小銃を構えた。小田は持っていた軍刀を相手の頭部に思いっきり振り下ろした。敵兵はヘルメットではなく戦闘帽を被っていた。軍刀は頭部から鼻先までを一気に斬り裂いた。
「驚くほどよく斬れました。しかしねえ、嫌ですよ、あれは。本当に」
翌19日も散発的な戦闘はあったものの、同日の内に日本側は改めて軍使を派遣。ソ連側も受け入れ交渉に入った。その後も紆余曲折を経たが、最終的に停戦が成立したのは21日だった。この戦いにおける日本側の死傷者は600~1000名、対するソ連側の死傷者は1500~4000名。占守島の戦いは日本軍の圧勝だった。ソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐した。
日本はこうして「分断国家」への道を免れた。占守島の戦いは、地理的には小さな局地戦であったが、日本という国家にとっては極めて重要な戦いだった。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(早坂隆「証言・ソ連を北海道から撃退せり」)。