1945年8月17日、ソ連が千島列島北端・占守島に侵攻を開始した。玉音放送後に武装解除を進めていた日本軍は完全に不意を突かれたのだ。ノンフィクション作家の早坂隆氏が「占守島の戦い」の秘話を伝える。

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ソ連の奇襲が始まった

 17日の夜、状況は一変した。島の北部が不意の砲撃に晒されたのである。終戦後にもかかわらず、ソ連が奇襲を開始したのだった。

 18日午前1時過ぎには、ソ連軍の海軍歩兵大隊などが占守島北端の竹田浜に殺到。陸軍の狙撃連隊などがこれに続き、ソ連軍の兵力は延べ約9000人に及んだ。浜一帯は激しい地上戦の舞台と化した。

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いまも島に残る日本軍の戦車の残骸

 ソ連軍侵攻の報は、「北の備え」の指揮をとっていた札幌の第5方面軍司令部にもすぐに送られた。この時、第5方面軍の司令官だったのが樋口季一郎(きいちろう)中将である。樋口は満洲のハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年3月、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民に特別ビザを出すよう奔走して救出した経歴を持つ。そんな「知られざる名将」である樋口は、ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定。実は樋口は若い頃から「対ソ戦」を専門とする情報将校だった。樋口はソ連の南下政策と野望について充分に研究していたのである。樋口はこう現地に打電した。

「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」

 ソ連軍の侵攻を占守島で阻止しなければならない。もしここで跳ね返さなければ、ソ連軍は千島列島を一気に南下し、北海道まで迫るであろう。樋口はそう分析した。

 樋口の考えは当たっていた。ソ連最高指導者のスターリンは、釧路と留萌(るもい)を結んだ北海道の北半分を占領する計画を有していたのである。

「申し訳なく、自決します」

 午前3時頃、小田が属する戦車第4中隊にも「非常呼集」がかけられた。「敵襲」ということだったが、詳細はわからなかった。

 第4中隊に命じられたのは索敵(偵察)だった。そこで伊藤中隊長の乗る中隊長車を含む3輛の戦車が出動することになった。小田もこの偵察要員に選ばれ、95式軽戦車に乗り込んで中隊長車のすぐ後ろを進んだ。95式軽戦車は3人乗りだが、小田は機関銃手だった。

小田英孝氏は占守島で戦った元日本兵の一人

 3輛は占守街道を北に向けて走った。しかし、四嶺(しれい)山の山麓を抜けた辺りで、先頭を走る中隊長車が急に反転。来た道を戻るよう指示された。敵兵が速射砲の準備をしているのを発見したという。偵察が任務のため、深追いはしなかった。