そもそも桑沢デザイン研究所に入ったのも、子供の頃から絵を描くのが得意だったので高校時代に画家を目指して美術大学を受けようとしていたところ、予備校の講師から「おまえのようなおしゃべりなやつは絵描きに向かない。デザイナーがいいぞ」と勧められたのがきっかけだった。
いざ桑沢に入ると絵がうまい学生がたくさんいたため、稲川は立体のほうに行くと決め、工業デザインの道に進んだ。卒業後は友人から誘われて、グラスファイバーを扱っていた浜松のデザイン会社に入り、浜名湖畔のマリーナやモーターボートなどのデザインを手がけた。しかし、その夏に東京から遊びに来た友人たちが帰ったあとで急に里心がついてしまい、秋には帰京して、知人のデザイン事務所に嘱託として勤め始める。
デザイン事務所では宴会芸を身につけ、場を盛り上げていた
このころ、宴会芸を身につけ、取引先のメーカーの部長などからお座敷での商談の席に呼ばれるようになる。商談が成立すれば、稲川にもデザインの仕事のチャンスが回ってくるとあって、宴席ではパンツ姿でいろんなポーズを披露して商談の相手を笑わせたり、ヨイショしたりして、場を盛り上げた。そして頃合いを見計らい、事前に用意していた製図を見せると、たいていの相手は気に入ってくれ、仕事が即決したという。
同時期には、かねてより興味のあった舞台美術に携わるようになる。そこでは演出家から頼まれて、舞台の幕間で小咄をしたり、劇団のマネージャーを務めることもあった。これが芸能界にデビューするきっかけになるのだから人生はわからない。
マネージャーとして劇団の役者たちに付き添い、日本テレビの子供番組『まんがジョッキー』のオーディションへ行った際、たまたまその番組の担当に「コンパ屋」時代に知り合った放送作家がおり、話しかけてきた。話しているうちに流れで稲川もオーディションを受けることになる。役者たちの結果がどうも芳しくなさそうだったので思わず奮起したところスタッフに大ウケし、さっそく出演がきまったという(『週刊文春』前掲号)。このとき彼は27歳になろうとしていた。