そこへ訪問看護師さんがやってきた。今日は時間変更があったようだ。医師も同行していた。
「赤名さん、決心つきませんか?」
「決心はついとる。脚の切断もせんし、透析もせん」
アカナベは閉塞性動脈硬化症で、医師から脚の切断と人工透析を勧められている状況らしい。
「脚がのうなると、ここには住めん」
アカナベの住まいはエレベーターなしの2階だ。
「透析しとる仲間はほどのう死んだ」
「透析したから亡くなられたわけじゃありません。透析をしたから生きられたとは思いませんか」
「わしの気持ちは変わらん」
もし、2億円があれば、高級老人ホームに入りつつ、医療ケアを受けられただろう。だけど、あの豚の角煮には出合えていない。何を食べてもうまくないと、高級品を取り寄せてはため息をついていたアカナベが、自分が作った豚の角煮はうまいと食べた。お金がないから出合えるものもある。
「うちの奥さんはまだ70代のとき、いきなり死んだんじゃ」
医師が帰ったあとでアカナベが言う。
「いつかは死ぬのなら、苦しゅう生きとうないじゃないか」
「でも今も、もう十分苦しいんじゃないですか。治療をお勧めします」
私がそう言っても、アカナベはうんと言わなかった。
主治医ですら説得できないものを、私の言葉で気が変わるとも思えない。それでも訪問するたびに治療を勧める。
あるとき、アカナベがしんみりとつぶやいた。
「うちの奥さんはまだ70代のとき、いきなり死んだんじゃ。朝起きたら、隣で死んどった。わしはあいつのこと、許せんのじゃ。わしをおいて、さよならも言わんと逝ったこと、怒っとる。でも、わしは、最期にありがとうも言ってやれんと逝かせたことを怒っとる。誰にもありがとうも言われんと死んでいくんは、さびしいじゃろうな。なあ、わしが逝くときは『ありがとう』ってそばで言ってくれんかな」
「よっしゃ。まかしとき」
「軽いやつじゃのぉ」
「その前に、治療を受けたらいかが?」
「治療はええ。でも死にかけたら電話するけ。すぐに来い言うて電話するけえの」
本人の決心が揺るがないのなら、来るたびにしつこいことを言う介護ヘルパーは気持ちがふさがないか。もしかしたら、残り少ない時間になるのなら、1分も無駄なく楽しいほうがいいんじゃないか。私はいつも揺らいでいる。