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 ポルノ作家のイメージは、女性好きかもしれません。僕の場合好きというよりは、女性に好かれるほうでしょうか。ご経験が豊富なんでしょうと言われましたけど、ほとんど想像です。あんなふうに経験していたら、死んでしまう(笑)。作者の実体験だと思わせたほうが、読者は喜びます。さてどこまでが想像で、どこからが事実なのか。商売ですから、針小棒大が才能の見せ所です。

満州で培った官能と猥雑さ

 ずっと売れっ子だったわけではありませんが、45年間書き続けました。自分の顔を世間に晒したくなかったので、ほとんど写真も出さず、テレビ出演も断わっていた。それに飲み歩くこともなかったですね。銀座で幅を利かせていた作家もいましたが、面白くもなんともなかったですからね。編集者との付き合いで足を運ぶ程度でした。

 当時の出版社は、僕と川上宗薫と富島健夫の3人をセットにして売りたがりました。1人でも欠けちゃいかんというわけで、随分、書かされました。川上宗薫の小説は、掲載した雑誌の編集長が警察に呼ばれて怒られたらしいです。当時はまだ、わいせつに厳しい時代ですから。僕の場合は「あっ……」「ソファに座ると突然専務さんたら……」と「……」が多くて、具体的に書いてない(笑)。一度も警察に呼ばれたことはありません。だからあんまりエッチじゃなかったんですよ、僕のは。

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宇能氏が住んでいた敷地面積600坪の洋館の内部 ©文藝春秋

《1934(昭和9)年、北海道札幌市に生まれた宇能氏は満州で育った。終戦で引き揚げ、福岡県で暮らす。芥川賞を受賞したのは、東大文学部国文学科を卒業して大学院に在学中、27歳のときだった。受賞作「鯨神」は、明治初期の九州平戸を舞台に、鯨獲りの若者が祖父、父、兄を殺した大鯨に復讐を挑む土着の物語だった。

 芥川賞の選評で、選考委員の丹羽文雄氏は〈宇能君はどんな風になっていくのか、私達とあんまり縁のないところへとび出していくような気がする〉と将来を予測し、舟橋聖一氏も〈この人の将来は、興味深い未知数である〉と書いた。

 その予想通り、宇能氏は、官能のほか、食味随筆や旅行記、「嵯峨島昭」のペンネームによるミステリーへと、フィールドを広げていった。》

 性、食、暴力には官能的という共通点がある。「姫君を喰う話」の冒頭、タンを女性の舌に譬えた描写が官能的だと言われました。女性はイヤらしいと思うかもしれないけれど、僕にとっては自然です。

 私の官能や猥雑さが培われたのは、やはり満州の奉天で過ごした少年時代でしょうね。生鮮市場から捌いたばかりの肉や臓物の、そして街中にはアヘンの濃厚で甘ったるい匂いが漂っていた。

 小学校5年生か6年生のとき、親父に家から追い出されて、しばらくヘビやカエルを食べながら暮らしたことがあります。「草を刈ってこい」と言われたのに刈らなかったら、「家に入るな」と言われましてね。食料は配給制でしたから、1人分でも食い扶持が惜しかったんでしょう。

宇能鴻一郎氏 ©文藝春秋

 終戦から間もない頃、泥棒して捕まって、ソ連軍の司令官の家へ連れて行かれたこともあります。奉天市長の公邸のそばでした。「今晩パーティーをやるから、給仕をしろ」と言われて、司令官夫人に風呂場で裸にされて身体を洗われました。着ていた服はぼろぼろでしたから、腰にタオルを巻いただけで給仕をさせられました。そのうち素裸にされて……。その司令官は、のちにスターリンに殺されたらしい。この話、半分は本当で、半分はまぁ小説です(笑)。

 福岡へ引き揚げて来て、1年遅れで学校に通いました。文学を志したきっかけですか。父親が小説好きで、『改造』という雑誌が家にあったのを読んで「俺も」と思った記憶はあります。

 修猷館高校時代に大量の本を読みました。岩波文庫の古本で、文字量の多いものから手に取っていましたが、失敗でしたね。あれで文章が難しくなった。いや、「あたし」が発明できてよかった(笑)。

(取材構成・石井謙一郎)

※このインタビュー全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(宇能鴻一郎「芥川賞・ポルノ・死」)。

 

 全文(7000字)では、宇能氏が、横浜の小高い丘にそびえる敷地面積600坪の洋館の秘密、「女性はセックスが日常である」と語った理由、芥川賞を受賞して結婚した当時の生活などについて詳しく語っている。

文藝春秋

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芥川賞・ポルノ・死