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「子役時代にはあった輝きが失われている」転機となった“再会”

 真田は5歳で子役デビューしており、そこから数えると芸歴はまもなく60年を迎えようとしている。子供雑誌のモデルからスカウトされて児童劇団に入り、さまざまな映画に出演したのち、いったんは子役をやめたが、中学に入って俳優を本格的に志した。そこで彼が門を叩いたのが、俳優の千葉真一が主宰するジャパン・アクション・クラブ(JAC)だった。千葉とは子役時代の映画デビュー作で、続編も2作つくられた『浪曲子守唄』(1966年)で共演していた。

本名の下沢広之として活動していた子役時代の真田広之と、千葉真一(「男の子守唄/女の片えくぼ」1968年、キングレコード)

 17歳のときには、千葉と深作欣二監督が組んだ映画『柳生一族の陰謀』(1978年)のオーディションに合格し、再デビューする。それまで本名の下沢広之で活動していたが、このとき千葉が、自身の芸名の真一から「真」、本名の前田から「田」を取って「真田広之」という芸名をつけてくれた。

 同じ年には前出の『宇宙からのメッセージ』で主役に抜擢され、翌年も『真田幸村の謀略』『戦国自衛隊』にあいついで出演する。ただ、千葉は真田に再会したときから、子役時代にはあった輝きが失われていると感じていたという。それでも真田に寄せる期待は強く、何とかして売り出そうと考えていたとき、東映のプロデューサーの日下部五朗から『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)という忍者映画の企画を持ちかけられた。

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 日下部は当初、この映画の主演には体操のオリンピック選手を考えていたが、千葉は演技経験のない者の起用に反対し、代わりに真田を推したのだった。日下部は「いま一つアピールするものが足りない」と難色を示すも、それは千葉もかねがね思っていたことであり、撮影に入るまでの3ヵ月のあいだに鍛え直して、真田を別人にしてみせると訴えてどうにか納得してもらう。

1979年、40歳当時の千葉真一 ©時事通信社

千葉が真田をサーカスに預けて…

 そのために千葉がしたのは、真田をサーカスに預けるということだった。その成果は予想以上で、真田はわずか1ヵ月で空中ブランコを観客の前で披露するまでになる(千葉真一『侍役者道』双葉社、2021年)。劇中では地上約30メートルからの空中ダイビングをスタントなしで行い、評判をとった。

 千葉は真田の恩師であるとともに、海外で活躍する日本人俳優としても先達であった。70年代には主演した一連の空手映画がアメリカに輸出され、「サニー千葉」の名で人気を集めた。その後、50代に入っていた90年代には本格的にハリウッド進出に挑み、ロサンゼルスに拠点を移す。真田が、先に引用した1993年のインタビューで「男優というのは、やっぱり四十、五十、六十なんだと、諸先輩方を見ていて思います」と言っていた「諸先輩方」のなかには当然、千葉も入っていたはずだ。