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 その日を境として《舞台でのやりとりも遠慮がなくなり、どんどんレベルが上がっていって、最後の1ヵ月は投げられた球を感じたまま返せる状態にまでなった。千秋楽が来ないでくれと思いました。この経験を境に、バックグラウンドや言葉が違っていても一丸となって一つの物を作る醍醐味を知り、国境を超えることが病み付きになってしまったんじゃないでしょうか》と、真田はのちに海外の映画にあいついで出演するようになってから顧みている(『婦人公論』前掲号)。それほどまでに真田にとって、シェイクスピア劇を本場の俳優たちと一緒に演じた経験は大きかった。

『ラスト サムライ』の演技が脚光を浴びる

 明治初年の日本を舞台とした前出の『ラスト サムライ』で真田はトム・クルーズ演じるアメリカ人将校に厳しく接するサムライを演じ、脚光を浴びた。しかし、その後、ロサンゼルスに拠点を移してから出演した作品では、けっして華やかな役ばかりではなかった。それでも彼は淡々とこなし続けてきた。

2005年公開の映画『ラスト サムライ』(ワーナー・ホーム・ビデオ)

 それができたのは、真田は俳優として自分が目立つことを必ずしも求めていないからだろう。その姿勢は20代のときから一貫している。イラストレーターの和田誠は、初監督作品となる『麻雀放浪記』(1984年)の主演に真田を起用するにあたり、この物語は集団劇で、クセのある人物もたくさん出てくるため、あなたは主役とはいえ目立たない存在になるかもしれないがそれでもいいかと訊ねた。すると彼は《自分が目立つかどうか考えたりはしません。いい作品に参加したいと思うだけです》と答えたという(『アサヒグラフ』2000年4月28日号)。

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 後年にいたっても、チームで作品をつくり上げようという意識は強い。あるインタビューでは、役者として成功を収めるなかで手に入れたいものは何かと問われ、《自分が死ぬまでに少しでも向上して、より優れたクルーやキャストといいものを生み出せること。それがどこまで行けるかだし、それを続けられていることが幸せだし。それを分かち合える仲間がいることで、幸せが倍にも3倍にもなる》と答えている(『anan』2010年4月28日・5月5日号)。

2003年、京都・二条城で行われた映画『ラスト サムライ』の試写会に出席した(左から)エドワード・ズウィック監督、渡辺謙、トム・クルーズ、真田広之、小雪 ©時事通信社

真田が語っていた、自身を突き動かすエネルギー

 真田はかつて自身を突き動かす《エネルギーの三要素は、プレッシャーとコンプレックスとレジスタンスだ》と語っていたことがある(『週刊朝日』1999年4月30日号)。シェイクスピア・カンパニーへの挑戦などでは、プレッシャーを感じながらも、それがいい意味でモチベーションになっていたのだろう。また、コンプレックスは彼に言わせると子供のころから色々とあり、たとえば背が小さいというコンプレックスから、武道で大きい人に勝つにはどうしたらいいかとか、スクリーンに映ったときにどうやって大きく見せようかとか考えるようになったという。

 レジスタンスも重要な要素である。とりわけレッテルを貼られることには抵抗感が強く、17歳で再デビューするに際し「子役あがりは大成しない」というジンクスを覆そうと誓って以来、それをはがすことを生きがいのように感じてきた。アクションスターとして人気を集めていたころには、そのイメージを崩すべく、コメディタッチのミュージカル『リトルショップ・オブ・ホラーズ』(1984年)で三枚目の役を演じた。