猫も杓子も、と嫌味を言いたくなるほど、日本の教育界は今やどこもかしこもアクティブラーニングばかりだ。静かに座って教師の話を聞く“受動的”な学びでは先行き不透明な未来を生きる力は育たない。主体的、対話的にして“能動的”な学びこそ必要だと言われる。
しかし教育社会学者・小針誠『アクティブラーニング』(講談社現代新書)によるとアクティブラーニングとよく似た発想の教育の例が実は過去にもあった。たとえば戦前の成城学園は米国で開発された教育手法「ドルトン・プラン」を取り入れ、個々の児童が自ら課題を発見し、体験を通じて学ぶ“自学自習”を謳っていた。だが、学習のペースを児童の自主性に任せると、それぞれの能力と意欲の違いで進度の差が大きく開いてしまう。こうした問題を重く見て成城学園は学習方針の変更を余儀なくされたという。
猫も杓子も、と言いたくなるのはTOEICもそうだ。日本人は英語学習に長い時間をかけるが、外国人相手の交渉すらままならない。そこで会話重視の教育が求められ、その達成度の測定にTOEICが使われる。今や生徒・学生だけでなく、英語教師の能力評価や、大学入試への導入も進められているという。
だが、英語圏で作られ、英語だけで実施されるテストで測れるのは「どれだけネイティブ化したか」に他ならない。猪浦道夫『TOEIC亡国論』(集英社新書)は日本人が「日本語脳」を捨てて「英語脳」を獲得することは困難だし、それにどれほどの意味があるのかと問う。国語(日本語)力は思考と深く関連する。言語(英語)力は思考の結果の表現である以上、英語を学ぶ前に国語力に立脚した思考力の育成が必要なのだが、英会話至上主義はそうした構図を忘れがちだ。
社会的問題の原因を過去の教育に求め、教育を変えれば社会が変わると信じたがる気持ちはわかる。だが生身の人間相手の教育での失敗は取り返しがつかない。『日本の公教育』(中公新書)で著者の中澤渉は、形だけ海外の試みを導入しても副作用が起きたり、改革導入前に見られたメリットすら失われてただの「改悪」になったりする危険があると書く。
たとえば公教育には包摂性が必要だが、アクティブラーニングは教育からこぼれ落ちる人を増やす轍を再び踏まないか。会話英語偏重は内省する習慣の喪失に繋がらないか。今回選んだ三冊は、教育改革に猪突猛進する社会の中で、いったん立ち止まって未来のためにこそ過去に学び、人間や文化を深く洞察することの重要さを教えてくれる。