1ページ目から読む
2/2ページ目

 本書の冒頭では愛する男性との間に芽生えた命を育てられなかった女性の物語が描かれる。彼女は母親の責任を放棄したと非難されるかもしれないが、我が子の将来を案じた末の行動ともとれる。愛の答えは一つではない。また、愛する者を守ることが罪になるとわかっても守ると踏み切る愛もある。罰を厭わずに真実を隠して罪を犯したのだとすれば、これほど動機が難解な事件はないだろう。

 真相は表面からは見えない「深層」の中にある。一見愚かにも見える行動を取った者の心情を理解できるのは、同じ愛を知る者だ。誰もが「深層」にたどり着けるわけではない。

 どんな人にも親はいるが「普通」の親はいない。それぞれの親がいて、愛し方も親子関係も人の数だけある。

ADVERTISEMENT

中江有里さん

 本書に登場する母は、子を手放した過去を悔いながら生きてきた。一方、母のもとで育つことができなかった子は、やがて母の心情の理解に努めるようになる。自分の手をあえて離した母の愛を知っていく。

 物理学を用いた湯川独特の推理は終盤で一気に謎が解明するカタルシスが魅力だが、今回彼の謎めいた行動にはミステリーの面白さだけでなく、科学者として、人間としての道理を感じた。

 一体私はいつからこの精密な物語の螺旋の中に居たのか。まさかシリーズの最初から仕組まれていたのか……思わずそう問いたくなる快作だ。

(初出:「週刊現代」2021年9月11・18日号)

中江有里/1973年生まれ。ドラマ・映画に出演する傍ら、脚本や小説を執筆。書評も多く手がける。著書に『万葉と沙羅』『愛するということは』など。