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カリスマ篠竹監督の後を継いだ内田監督

 内田監督とはいったいどんな人物なのか。

 歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で知られた故・篠竹幹夫元監督の後を継いで、2003年にフェニックスの監督に就任したのが内田監督だ。当時の関東リーグは法政大学の一人勝ちで、日大は1990年を最後に、大学日本一決定戦である甲子園ボウルから遠ざかっていた。やがて内田体制が根づくと2007、11、13-14年に関東リーグを制して甲子園ボウルに出場するがいずれも関学に敗退。内田監督は2015年に一度勇退したがチームがリーグ4位と不振を極めたため昨年に復職。復帰1年目で27年ぶりとなる悲願の日本王座を手に入れた。そのとき、戦前の不利の予想を覆して破った相手が関学だった。

昨年の甲子園ボウルで日大フェニックスは関学を破って学生日本一に。中央が内田監督

「人の上に立ってはいけない人」

 内田監督は学内では常務理事を務め、日大で実質“ナンバー2”とも言われる立場の人物だ。人事権を掌握し、田中英壽理事長の信頼を集める。日大は日本最大級の学校法人だからその威光の強さは推して知るべしだ。

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 だが、あるフェニックスOBはこう語る。「内田氏は気が小さく、監督の器ではない。コーチ時代は篠竹監督がいたのでおとなしくしていたが、学内での地位が上がるにつれて独裁的な組織運営をするにようになった。人の上に立ってはいけない人だ」と。

 その一方で内田監督の指導を受けたことのある別のOBは「篠竹監督のもとでコーチをしていた頃はサポート役で、私たちにとっては優しい兄貴分だった。ご飯にもよく連れて行ってもらった」と語る。ただ、90年代後半以降に日大がなかなか優勝できなくなった頃から変化を感じたとも言う。

「篠竹監督には直接は言えないから、みんな非難を内田さんに向けてしまう。『内田はなにをやっているんだ』と。その頃から人を避けるようになった。篠竹さんに代わって監督になってからも、少しずつ孤立していったんです」