つげ義春には、「夢」を感じられる作品が少なくない(※)。
それは一義的には、現実には起こりえない出来事を描くという意味である。たとえば、代表作と目される「ねじ式」(1968年)を見てみよう。物語では、海辺でメメクラゲ(「××クラゲ」の誤植から生まれた言葉とされる)に左腕を噛まれ、医者による治療を求めて村をさまよう少年の足取りが中心に描かれる。しかし、その旅における少年の体験は、現実の風合いとは大きくかけ離れたものだ。狐のお面をかぶった少年が運転するおんぼろ汽車に乗ったり、金太郎アメを売る「ぼくが生まれる以前のおッ母さん」にふいに出会ったりもする。そして、治療はなぜか女性の産婦人科医によって行われなければならず、ようやく見つけた医者のもとで、少年は「シリツ」という名のまぐわいにふけるのである。
つげ義春が描く「夢」の世界
また後期の作品「必殺するめ固め」(1979年)も好例だ。山村を歩いている若夫婦の前に元プロレスラーの痴漢が現れ、夫に対して作品のタイトルともなっている技をかける。すると夫は、するめいかが火の上で反り返るように体が巻かれてしまう。つまり、じっさいの人間の身体構造を考えれば、ありえないような形に体がひん曲がってしまうのだ。しかも、そのような状態になっても夫は死ぬことはなく、クモのように体を這わせてそのまま家へと帰っていく。
あるいは、設定自体はありそうだとしても、登場人物がおもにはセックスの文脈において、常軌を逸したとしか思えない行動をとるという意味である。たとえば「夢の散歩」(1972年)。主人公の男はある日、傾斜のある道を通ろうとしたところ、そこにあったぬかるみに足をとられそうになる。自身は何とかその場を切り抜けるものの、続いてやってきた幼い子どもを連れた女性は、足をとられるのみならず、パンツがずり落ちて尻が丸出しになる。そこで男は何の脈絡もなく背後に近寄り、そのまま女性との性交におよぶのだ。
また、宿における混浴の温泉の中で、客である主人公が聾唖の女主人に襲いかかる「ゲンセンカン主人」(1968年)や、人目のあるであろう街中で、主人公がいきなり妻の陰部を舐めようとする「夜が掴む」(1976年)なども同様だ。こうした作品では、舞台はまさに「性の無法地帯」とでも呼ぶべき様相を呈している。
絵コンテのままで発表された「雨の中の慾情」(1981年)は、ひとまず後者の、常軌を逸した行動が目立つ作品の系譜にある一作といっていいだろう。強い雨の中、屋根のあるバス停でたたずんでいる男女。やがて雷が強くなる。男は金物を身に着けていると危険だと女に告げ、時計や指輪のみでなく、下着も脱ぐことを要請する。自らもいつのまにか全裸になる男。男は、バス停にも雷が落ちる危険性を語り、女を連れて田んぼ近くのくぼ地に逃げ込む。そしてお約束のというべきか、男は女の背後からペニスを突き立て、性行為に及ぶ。