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2018/05/26

カリスマ・篠竹幹夫にあって内田正人にないもの

 一つひとつの言葉を吐き出すように話していたA氏の口調に熱を帯びてきたのは、自身も指導を受けた恩師である故・篠竹幹夫元監督に話が及んだ時だ。篠竹氏は1959年から44年間にわたって監督を務め、フェニックスを17度の学生王座に導くなど、黄金時代を築いた。

日大フェニックスの象徴・篠竹幹夫元監督 ©共同通信社

 絶対的な威厳と支配力を持つカリスマだった。指導法はいたって厳しく、時にスパルタと呼ばれた。そのやり方に周囲からは批判の声も多かったが、それでもA氏をはじめ多くのフェニックスOBは、篠竹氏を「オヤジ」と呼んで没後12年を迎える今日でも敬愛している。

「オヤジは選手と一緒に風呂に入ったり、マージャンを教えてくれたりして選手とコミュニケーションをとっていた。スパルタと世間は言うけど、自分はそうは思わない。楽しかったですよ。そこには『へたくそ』を『日本一』にしてやるというオヤジの気持ちがあったから。信頼できたんです」とA氏。

「内田さんこそがオヤジのやり方と乖離したんです」

「僕の人生は誇れるものなど何もないけど、フェニックスでの4年間は自分にとって輝かしい、充実した時間だった。それをこんな形にしてくれて……」と悔しさをにじませる。

 篠竹氏は選手に対して常に「サムライたれ」と指導していた。筆者も生前の篠竹氏を取材した際に、「今のニッポンにはサムライがいなくなったなあ」、「あのやり方はサムライじゃないよな」などという言葉を何度も耳にしたものだ。

「オヤジはよく『切腹する覚悟でやってこい、責任は自分がとってやる』と言っていた。今回の件で、サムライは宮川だけですよ」とA氏は憤る。「内田さんこそがオヤジのやり方と乖離したんです。オヤジが空から見ていたら『内田ぁ~! しっかりしゃべれ!』と怒鳴っているに違いない」

 日大フェニックスの権威が失墜した今、篠竹氏は何を思っているのだろうか——。

生沢 浩(ジャパンタイムズ)

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