いきなりマニアックな話で恐縮だが、CS放送のGAORA、J-SPORTS等で野球中継を見ていると、かなりの頻度で「しじみ習慣」のCMを見ることになる。詳しいことは知らないのだ。しじみエキスのカプセルらしい。そうするといつも僕は「しじみちゃん」のことを思い出す。僕らがまだオルニチンという言葉を知らなかった90年代、しじみといえば大貝恭史(おおがいやすふみ)だった。背番号52。93年、NTT四国からドラフト3位で入団した左投左打の外野手。名前は「大貝」だが、身長169cm、66kgの小兵で、さっそく大沢親分に「しじみちゃん」というあだ名をつけられた。
華々しいデビューを飾った「しじみちゃん」
ルーキーイヤーの開幕戦(94年4月9日、東京ドーム)に「9番センター」でスタメン出場だから華々しいデビューだった。初打席はロッテ先発の小宮山悟からヒットを放っている。気持ちが表に出るタイプで、見るからにハツラツとしている。プロ野球に飛び込んだ喜びを全身から発している。僕は一発で気に入った。
翌ロッテ2回戦は殊勲者だった。この試合、ファイターズは「スミ1」の1点を河野博文→松浦宏明→金石昭人の完封リレーで守り切り、開幕2連勝を飾った(ちなみにロッテ先発は伊良部秀樹、122球、被安打4、自責1の完投だった)のだが、大貝恭史は6回、ロッテ・平野謙のセンターへの大飛球をフェンスに激突しながら好捕した。手元に「新人大貝が勝利つかんだ」(94年4月11日付、日刊スポーツ)の記事がある。これはものすごく重要なことを告げている記事なので、長めに引用させてほしい。
「日本ハムに薄氷の逃げ切りをもたらしたのは、ルーキー大貝恭史外野手(21)のファインプレーだった。1−0で迎えた6回1死一、二塁。平野の打球が中堅頭上を襲った。背走、そしてジャンプ。捕った直後、中堅フェンスに激突。タッチアップを防ぐためすぐ二塁へ返球したが、そのまま倒れ込んだ。
『あそこまで伸びるとは。ラバーが軟らかいと思ってぶつかったら、硬かったですよ』。左肩と左腰の打撲。しかし、その痛みが勲章だ。抜けていれば逆転を許し、伊良部の出来からすれば敗戦パターンだったはずだ。
東京ドームのデーゲームでは、苦い思い出がある。都市対抗の時、打球を見失ったことが2回もあった。記録は安打だが、守りに不安を持っていた。それも、この好捕で忘れることができる(後略)」(同記事。後略はえのきど)
このときのことはありありと覚えている。上層階の内野自由席から大貝のフェンス激突を見て、しばらく倒れたままなので、仲間の1人が「しじみちゃん、貝割れちゃった?」と言った。で、「脳震とうかな? よく投げてから倒れたね」などと話した。やがて起き上がった大貝に球場は大拍手だ。「よかった、貝割れてなかった」、仲間はまだそんなことを言っていた。
もちろんこの大貝恭史こそ、95年4月22日、西武戦5回戦の8回表、「ドーム落球」で西崎幸広のノーヒットノーランをフイにしてしまった悲劇の外野手なのだ。記事を読み返して鳥肌が立った。まさか悲劇の1年前の記述で、社会人時代の「ドーム落球」に触れられているとは。
打ち上げれば何かが起きる東京ドームでのデーゲーム
野球に落球はつきものである。そして落球は悲しいのだ。例えば今季、ロッテ10回戦の8回裏、2死一、二塁の場面で中村奨吾のポップフライを鶴岡慎也が落球して、ダメ押しの2点目を献上している。ZOZOマリンの風は本当に厄介なのだ。
だけど、ことデーゲームに限っては80年代90年代の東京ドームはもっと厄介だった。白いボールに白い屋根だ。特に曇天の日はフライが消える。僕らハム党は「欠陥球場じゃないのか!」と文句を言っていた。当時、巨人は土日もナイター開催していたから、被害はもっぱらパ・リーグと都市対抗野球だった。それが本当にしょっちゅう起きるのだ。都市対抗は当時、金属バットと「ドーム落球」ですごく大味な試合内容だった。よく「転がせば何かが起きる」と言うけれど、東京ドームのデーゲームは「打ち上げれば何かが起きる」のだ。ちなみに94年5月1日(悲劇の1年前&大貝のデビュー年)のダイエー戦3回表、急造外野手の田中幸雄が、浜名千広の平凡なセンターフライを見失い、何とランニングホームランにしている。
※現在の東京ドームの屋根はだいぶ黒ずんで、ボールが見えるようになった。巨人がデーゲームを採用した所以ではないかと思っている。かつては本当に純白だったのだ。また照明の当て方もずいぶん改善されたそうだ。
では件(くだん)の95年4月22日、西武戦5回戦に話を進めよう。14時開始のデーゲームだ。先発はハムがエース西崎幸広、西武は「オリエンタルエクスプレス」郭泰源。当然ながら西崎はキレキレだった。7回終わって四球の走者2人しか許していない。スコアは3対0でハムがリード。残すは8、9回の2イニングのみ。日本でもアメリカでも大記録がかかった試合は、その話題は避けるというジンクスがあるそうだ。言うと逃げる。面白い心理だ。自由席にいた僕らもその話題を口にしないよう必死に努力していた。
というのも西崎は89年4月13日の西武戦、7回終了時までパーフェクトを達成していて、8回先頭の清原和博にホームランを打たれた苦い過去があるのだった。8回は嫌なイニングだった。今度の先頭打者はデストラーデだ。平凡なセンターフライを打ち上げた。オッケー、あと5人だ。と思った瞬間、誰かが「ああ、見えてないっ!」と声を上げた。大貝恭史が上空を見上げて、ボールを探している。「後ろ、後ろだぁ!」、僕らは必死に叫んでいた。球場全体が悲鳴に包まれる。ボールは大貝の後方30メートルの地点にポトリと落ち、フェンスまで転がる。西崎は振り返って、声にならない声を上げ、あわてて三塁カバーに走る。打者走者デストラーデは三塁に到達していた。記録上は大貝が触っていないため、三塁打だ。ノーヒットノーランが消えてしまった。