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苦労を重ねた野球人生

 祖父江大輔の野球人生は、順風満帆とはとても言い難い。まず、圧倒的に小柄だった。現在も175センチと上背のあるほうではないが、小学校卒業時は150センチちょっと、高校入学時は160センチほど、大学入学時も168センチほどしかなかった。

 中学生時代には少年野球チームに所属していたが、周囲との体力差がありすぎて退団している。その後はひたすら父親とマンツーマンで練習を積み重ねた。「父の球 捕ってしびれる 手と心」とは、祖父江少年が小学校の授業で詠んだ「俳句」である。父との練習が実を結び、愛知高の野球部ではレギュラーを掴むことができた。ポジションは小柄な選手が多いショート。最後の夏は県大会の3回戦で敗退した。同じ年の平田良介の甲子園での活躍はテレビで観ていたという。

 投手に転向したのは愛知大学時代のこと。投手なんてやったことがなかったが、このままでは試合に出られないと上級生に言われて慌てて志願、力任せに投げたら140キロ出たので監督にも認められた。身長は175センチまで伸びて、愛知大学野球1部リーグでの優勝を掴み取る。

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 そして迎えた2009年のドラフト会議。祖父江は吉報を待ったが、とうとう最後まで彼の名前が読み上げられることはなかった。隣にはドラゴンズから育成2位で指名されて笑顔を見せる捕手の赤田龍一郎がいた。失意の祖父江は社会人のトヨタ自動車に進むが、ここでも周囲の選手とのレベルの差を痛感させられる。愛知大学の先輩・岩瀬仁紀も、トヨタの先輩・吉見一起も、祖父江にとって「雲の上のような人」だった。

 プロ解禁した年も、その次の年も、ドラフトでの指名はなかった。結局、プロに入ったのは、4度目のドラフトとなる2013年。ドラゴンズからドラフト5位指名。祖父江はもう26歳になっていた。

苦労の野球人生を送ってきた祖父江 ©文藝春秋

「いつでも、どんな場面でも、いけと言われればどこでも投げる」

 プロ入り後も苦闘が続く。ルーキーイヤーは火の車の投手陣の中で54試合に登板し、同期の又吉とともにチームを支えたが、2年目以降は打ち込まれることが増えた。2016年には三等兵から四等兵に降格。初勝利をあげたのはプロ4年目のことだった。

 ポジションは一貫して中継ぎ。これはプロ入りしてすぐに志願したものだ。球種もそれほど多くなく、肩ができるのも早い。自分の適性を把握できているのは、彼が野球エリートではなかったからだろう。自分の適性を把握しなければ、あっという間に振り落とされる世界で生き抜いてきた。

 勝ち試合だけでなく、負け試合でもワンポイントでもロングリリーフでも、どんなところでも投げる。「いつでも、どんな場面でも、いけと言われればどこでも投げるつもりです」と祖父江は言い切る。まるでアントニオ猪木だ。もちろん、そのためには万全の準備が必要になる。祖父江のモットーは「いかなる時も準備万端の態勢で」である。

 肉体的に劣っていても、もともとの能力に差があっても、相手に向かっていく気迫と万全の準備さえあれば活躍することができる。それは祖父江も、サッカー日本代表も、エリートになれなかった我々すべての人にも共通のことだ。挫折だって苦労だってすべてが糧になる。人生に無駄な寄り道なんてない。

 祖父江大輔は無敵のスーパーリリーフじゃないかもしれないけど、観ている我々に勇気を与えてくれる。そして、ドラゴンズがこれから起こす「奇跡」には絶対欠かせない男だ。

 なお、「三等兵」「四等兵」とはドラゴンズの新春特番でサバイバルゲームに挑戦した祖父江が自称して言っていたもの。日本兵のコスプレが異様に似合う祖父江は、実はとても陽気な男なのだ。特番、復活しないかなぁ?

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