このかつ山については、別の評判記でこんな風にかかれています。ふつう、侍の子は見目こそよくはないけれど、目のうちに気高いところがあって、いやしい感じはしない。それに対して、下々(しもじも)の子は見目こそ麗しいけれど、いやしくみえるものだ。かつ山はどこがわるいという訳ではないけど、生れがいやしい。ようは、侍は美しくないけど気高さがある、一方で身分が低い者の子は美しくても卑しい感じがするもので、かつ山は美しいけど、「下々」の生まれだから少し卑しいところがある、と言いたいのでしょう。京の、あまり裕福でない家の生まれであることが想像されますが、その視線はちょっときついように思えます。

娘たちを親から買い、遊女屋に売る「女衒」

京からとは、また随分遠くから江戸へ連れてきたものです。京にも遊廓や非公認の遊里はありますが、そちらに売られなかったのは、女衒(ぜげん)が「吉原に売った方が儲かる」と思ったからかもしれません。

女衒とは、娘たちを親から買い、遊女屋に売る仲介をした者です。地方によって女見(じょけん)・人置(ひとおき)などとも呼ばれました。元禄2年(1689)の『新吉原つねつね草』には、「東国」を見立てにまわり、人の娘を連れてきて吉原に取り持つ女衒に触れられています。良い娘は大方遠州(えんしゅう)(遠江(とおとうみ)国。現・静岡県)から出るとかで、この女衒はよくそのあたりを回っていたようです。

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一方で吉原の遊女は越後(現・新潟県)の出身者が多かったともいわれます。とくに飢饉や災害があった年にはやむを得ず娘を売るということがままあり、子どもの間引きをあまりしない風習があったり、不作になりやすい土地柄の国から売られる傾向があったりしたようです。

多くは温和そうな商人風だった

しかし、そう都合よく女衒の欲しい「良い娘」が売られてくるとは限りません。そのため、娘の誘拐はもちろん、親に対して不法な高利貸しをして、その代金として娘を無理やり連れ去る女衒などもいたといいます。