通じないとはいかないまでも、遊女の訛りが嫌がられたのは、先の『満散利久佐』にもみえたとおりです。天女(てんにょ)のように憧れていた遊女とようやく会えたと思ったら、ものすごく訛っていて、田舎の貧しい出であることが丸わかりだった……なんてことになれば、客の夢を壊しかねません。そうした言葉の問題を解決するために考案されたのが、廓言葉です。いつから使われるようになったのかははっきりしませんが、そのベースは京都の島原遊廓で考案されたといわれます。どこの生まれでも訛りが抜けやすい、勝手の良い言葉だったとか。

大金を払って遊女を身請けするときは、客は生国を知りたがった

このように廓言葉の導入は、客の夢を壊さないための経営手法の一つだったわけですが、客は遊女と懇意になるにつれ、やはりその出身地をも知りたくなってしまったようです。身請けのためにする起請文(きしょうもん)では、「生国(しょうごく)は何といふ所の、誰が子にて御座候(ござそうろう)」と、遊女の出自をはっきり記したという史料も残ります。はじめは自分と別世界の天女を求めても、懇意になればその実際を知りたがったんですね。

残念ながら、遊女の生国を記した起請文はあまり今に伝わっていません。ただ、遊女評判記には少しだけ、遊女の生まれについての記載がみられます。

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たとえば『吉原袖鑑(そでかがみ)』(延宝初年<1673>頃)にみられる、いこくという遊女(三浦隠居内)。彼女についての評判には、江戸町二丁目の庄左衛門の店に所属するふぢおかという遊女と、「実のおとゝい」だと書かれています。「おとゝい」は兄弟・姉妹を示しますから、姉妹ともに身を売られ、別の店に引き取られることになったのでしょう。

「身分が低い子は美しくても卑しい感じ」という当時の偏見

評判には続いて、「江戸の人にて両親とも無事にあり」ともありますから、江戸の出身で、両親は健在だということもわかります。借金苦か何かで売られてきたのでしょうか。この姉妹のようにばらばらにならず、同じ店に所属する場合もあったようです。ほかに、かつ山という遊女(新町<京町二丁目>峯順内)については、京の出身で、なんと他の遊女屋(三浦屋)に所属するわか山のいとことあります。吉原で偶然の再会を果たしたのか、それとも、いとこと一緒に売られるなんていう場合もあったのでしょうか。