こんなふうにいうと女衒=怖い風貌の悪漢たち、と想像するかもしれませんが、当時の小説の挿絵に登場する女衒は、そうしたイメージとはかけ離れています。たいていの場合はきっちりと襟元(えりもと)を整えたうえに質のよさそうな羽織を着ていて、一見、温和そうな商人にみえます。月代(さかやき)の剃りこみは吉原風に粋ですが、下働きの妓夫のようにトガッた出で立ちではなく、「人さらい」のイメージはありません(下図参照)。

そんな印象をうけるのは、女衒が大抵、文書(証文)と筆とセットで描かれているという理由もあるかもしれません。

どうして文書と筆がセットかといえば、彼らは身売り証文の作成も担っていたからです。身売り証文とは、遊女となる女性について年季や身代金を定めた契約書で、女衒も「請人(うけにん)」(保証人)として加判するのが常でした。そのように証文の作成を担い、吉原やその周辺に住んだ女衒がいる一方、地方回りをして娘を連れてくる女衒もいました。これが、山女衒(やまぜげん)と呼ばれた人たちです。

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15人ほどの子分を雇っていた女衒もいた

幕府は人身売買の担い手である女衒を何度か取り締まろうとしていますが、残念ながら、なかなか効き目はでなかったようです。それどころか、江戸後期には一大勢力を築いた女衒さえ登場します。三八(さんぱち)という男です。

当時、吉原周辺に女衒の家は十数軒あったそうですが、そのなかでも三八は、14、15人の子分を養い、かつ地方の山女衒も多く手下にしていたとか。各地から山女衒に連れてこられた娘たちは、つぎつぎに三八の家にかつぎこまれ、4、5日の間置いてから、吉原に売られたといいます。

女衒はなぜ連れてきた娘たちに良い食事をさせたのか?

なぜ連れてきてすぐに売らないのかといえば、娘たちをできるだけ高値で売るためです。娘たちは貧苦のためにやせ細っていますから、少しの間よいものを食べさせて、肉付きと血色を良くする。嫌々連れてこられた娘たちも、美味しいものを食べさせてもらえば、いい暮らしをさせてもらえるかも……と明るい顔になったかもしれません。