すべての動物で一番遊びが得意な「人間」
山極 社交の根底にある「目的のない遊び」――これは本来人間の子どもがとても得意とするところです。霊長類で長く遊べるのはゴリラとチンパンジーですが、遊びは体が弱いほう、小さいほうがイニシアティブを握ります。つまり、強いほうが弱いほうに合わせて力を調整しながら、時間の流れをつくる必要がある。追いかけたり追いかけられたり、対等な力関係のなかで役割を交代してこそ遊びが成立します。
実は、すべての動物のなかで一番遊びが得意なのは人間なんです。歴史家ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で明らかにしたのは、人間の文化も政治も社会もすべて遊びから発展して作られたということ。遊びを通して、力を制御し、相手に対する思いやりや信頼関係も自然にはぐくまれていきます。それが人間の対等で自由な社会の発展へとつながっていった。
だから、社交は遊びであり、人間社会を基礎づけるものだという原点に立ち返る必要があります。高齢者がコミットできる社交の場が少ないし、もっと言えば、学校という場はもっと遊びを担うとよいと僕は思っています。文科省の作ったカリキュラムに沿って数値目標を追う教育のもと、今や不登校児が34万人もいます。無論、不登校の背景には複合的な要因がありますが、幼少期から遊びのなかで友達とどう付き合うかを身体で学ぶ機会が減っていることと無関係ではないように思います。
――ご著書のなかで、交流の場としての縁側的な空間を重視されていますね。
「立ち止まれない」街のストリート
山極 僕は昭和30年代に東京郊外の国立で育ちましたが、当時はどこもかしこも縁側だらけでした。ふらっと友達のうちにいって縁側でジュースをもらったり、そこで過ごす近所の老人たちの世間話に聞き耳を立てながら遊んでいたものです。
こうしたハーフパブリック・ハーフプライベートの中間領域が日本社会の中で極端に少なくなってしまった。街のなかを歩いてもほとんどベンチがない。公園ですら、あっても長くゆったりとは座れない排除ベンチだったりして、多様な人々が腰を下ろして自由に話ができるような場になっていません。街なかで偶発的な社交が生まれないのです。
江戸の城下町は人々が立ち止まってそこらへんでいくらでも世間話のできた空間だとしたら、いまの都市設計におけるストリートは基本的にさっさと通り抜けることが重視された設計になっている。
――たしかに「立ち止まるな」という圧を感じます(笑)。
山極 京都大学教授の広井良典さんが本に書いていますが、ドイツやフランスの街の多くは立ち止まれるように作られていて、街のいたるところにベンチが沢山あるんですね。人々が座って憩える街になっている。パリとかでもカフェのベンチが街路に出ていて老人たちが腰掛けているでしょう。
ヨーロッパではパティオと呼ばれる建物に囲まれた中庭も多く残っていて、老人たちがたむろしてゆっくり過ごしているんですね。日本の都市でもそんな縁側的なハーフパブリックな空間を増やして、憩える街にしないといけない。入るのに暗証番号がいるようなマンションばかりではご近所との自然な交流も生まれようがないでしょう。
――マンションは気密性が高いですしね。