桐谷健太が直面する悲劇
もっと身近な例も挙げよう。いずれ「べらぼう」に登場する大田南畝(なんぽ)(狂歌を詠む狂名は四方赤良)。桐谷健太が演じるこの戯作者は本職が下級の幕臣で、吉原で遊ぶのが好きだった。そして天明5年(1785)11月、瀬川が所属していた松葉屋で、三保崎という下級の女郎を知ってのめり込んだ。その挙句、翌天明6年7月、三保崎を身請けしたのである。
下級の女郎の身代金は中級以上にくらべるとまだ安く、数十両(数百万円)が相場だったようだが、それでも下級の幕臣には、支払うのは大変だっただろう。「原稿料」を充てたのかもしれない。しかも、両親、妻、2人の子供がいる身での身請けである。さすがに本宅には住まわせられないので、別に妾宅を用意したという。
しかし、7年後の寛政5年(1793)、三保崎は30歳前後で病死している。妓楼では、あたえられた休日は1年に正月と盆の2日しかなく、毎日、性行為に明け暮れなければならない女郎の身体は、相当に蝕まれたようだ。そのうえ、ほとんどすべての女郎は梅毒などの性病に感染していたといい、とりわけ梅毒は、当時は不治の病だった。
せっかく身請けされても、そのときには市井の生活を十分に楽しめるだけの年月が残されていなかった、という女郎は多かった。
瀬川は再婚後2子をもうけたという説
「べらぼう」では今後、古川雄大が演じる戯作者の山東京伝(浮世絵師の北尾政演は同一人物)は、吉原の女郎を本妻に迎え入れている。鳥山検校の「悪事」が暴かれた翌年の安永8年(1779)、江戸町一丁目の扇屋で菊園と出会い、それ以来、彼女のもとに通い続けた。ただし身請けはしていない。菊園の年季が明け、花魁の面倒を見る番頭新造として扇屋に残ったのち、寛政2年(1790)に彼女を妻に迎え入れたのだ。
しかし、菊園はそれから3年後、30歳で死んでしまう。理由は三保崎と同じだと思われる。
その後、山東京伝は流行作家になったので、金銭的な余裕もできたのだろう。寛政9年(1797)に江戸町一丁目の弥八玉屋で、客を取りはじめたばかりの玉の井と出会い、寛政12年(1800)今度は身請けをして、23歳の玉の井を後妻に迎え入れた。