文春編集者たちの「脅迫」
気にはなるが、見て見ぬふりをして、うっちゃっておこう。そんな気分で十五、六年が過ぎたころ、文藝春秋の編集者たちとの雑談のなかで、わたしはうっかりと薩摩藩と越中の薬売りが手を結んだ清国との密貿易のことを話してしまいました。
それは絶対に書いてもらわなくてはならない。こうやって編集者に話してしまったのだから、覚悟を決めなさい。手に入る資料はすべて文藝春秋が揃える。わからないこと、知りたいことなども、みな我々がしらべる。とにかく、まず何が知りたいかを箇条書きにしてくれ。担当編集者にまずそれを調べさせましょう。
ちょっと待ってくれ、というわたしの悲鳴のような懇願なんか聞いてはくれず、越中富山の売薬についての数冊の専門書が届き、薩摩藩に関する史書が届き、幕末期の北前船の資料がどっさりと届いたのです。
もう知らんぞ。無理矢理書かせたのは君たちだからな。俺は書けなくなったら途中で止めるぞ。
その言葉を編集者たちは冗談と受け取って笑っていましたが、わたしは本気だったのです。書き通す自信もなく、どんな資料を読んでも、なんの風景も浮かんできません。
しかし、初めての鹿児島取材で大分県豊後地方から海沿いの日向街道を南下して鹿児島に向かっているとき、あ、書けると思ったのです。どう説明したらいいのかわかりませんが、わたしはそのとき日向街道を薩摩へ薩摩へと歩いている行商人のひとりになっていました。
俺はこの男になればいいのだ。
あのときのみなぎるような意欲を忘れることはできません。
二度の大病を経ながら書き続けた
「文學界」には足掛け十年も連載をさせていただきました。小説の最後のところにさしかかったころ、大病をして二度の手術で入院しましたが、元気になって退院して、最後まで書きつづけることができました。
その間、お世話になった幾人かの編集者の方々にこころよりお礼申し上げます。
売薬業に関しての専門的な知識のほとんどは越中史壇会の現会長である米原寛氏のご教示を得ました。米原氏との出会いがなければ、『潮音』という小説は富山の薬という「鍵」の部分で動かなくなっていたにちがいありません。
鹿児島の示現流兵法所史料館館長の有村博康氏は薩摩藩と薩摩示現流に関する多くの知識を与えて下さいました。厚くお礼申し上げます。
なお、小説のなかでは、あえて薩摩弁も富山弁も京都弁も使いませんでした。このみっつの個性豊かな訛りは文章のなかで錯綜すると読みにくくて、わかりにくくて、書くのも読むのも混乱しそうだったからです。
二〇二五年早春 宮本輝
