今度こそちゃんと、おとっつぁんになるんだ
シリーズの既刊は、巻ごとに麻之助の人生を動かすような出来事がどこかで起き、それを中心のモチーフとして話も動いていくという形式になっていた。たとえば前巻『いわいごと』(二〇二一年。現・文春文庫)は麻之助に再婚話が持ち上がり、それに関連してさまざまな男女の、縁のままならなさが綴られるという内容だったのである。
『おやごころ』のテーマは、麻之助がしっかりする、ということだと思う。しっかりしなければならない。なぜか。『いわいごと』で妻となったお和歌との間に、こどもを授かったからである。一児の父となるという事実に向けて麻之助の心は逸る。意味もなく町内を走り回ってしまうくらいに急く。そうやっていないと居ても立ってもいられないのだし、体力をつけなければいけない、という気持ちの表れでもあるだろう。その「麻之助走る」の中で彼は呟く。「今度こそちゃんと、生まれてくる子の、おとっつぁんになるんだ。大丈夫、私は頑張るんだから」と。実は麻之助には、せっかく授かったこどもを我が手に抱くことができないどころか、最愛の女性まで失ってしまった、という哀しい過去があるのだ。今はこの世にない二人の影をも背負いながら麻之助は走る。しっかりしなくちゃ、と言いながら走る。
そして、しっかりした、いい男になったと思う。私が感心したのは、「よめごりょう」の話だ。麻之助に因縁をつけに男が現れる。妻のお和歌は、実は麻之助ではなく自分との間に縁談が進んでいたというのである。お和歌が身に覚えのないことだと否定すると、麻之助はこう断言する。そんな縁談は無かったと。無かったことの証を立てることは難しい。だが、突然現れた男と己の妻、どちらを信じるかと言えば「妻を信じるに、決まってるじゃないか」「何で見も知らないお前さんの方を、信じなきゃならないんだ」と。
こんな頼もしい麻之助の姿は、初めて見たような気がする。そして、本作の他の話でも、株は上がり放題なのである。悪友の清十郎が「麻之助は父親になって、ぐっと頼れる男になったと、評判だぞ。親子の諍いの裁定なら、麻之助に頼むのがいいという話まで出てる」とにやつきながら言うくらいだ(「おやごころ」)。「よめごりょう」では、本来は町人の管轄ではない窃盗事件の調査も含めて、三つも同時に頼まれ事をされる始末である。
シリーズを最初から読んできた人は、この麻之助の姿に感慨を覚えるだろう。その契機が妻との間に子を授かったことであることに、人の心が辿る道に、今も昔も変わりがないと私は感じた。一つの命がこの世に誕生するというのは、それほど大きな出来事なのだ。
「おやごころ」の麻之助は、生まれた我が子・宗吾の世話をしたくてそばを離れないものだから、親父から小言を食う。家の者に任せて、仕事をしろと。しかし麻之助の気持ちは痛いほどよくわかる。心配なのだ。授かった命はあまりに小さく、ふとしたはずみでどこかに持っていかれそうである。ちゃんと育つとわかるまでは、つききりで見守っていたい。私事ながら、自分の子が生まれたとき、私もやはり不安な日を過ごした。赤ん坊の寝息はあまりに小さくて、耳を近づけなければ聞こえないのである。その息に耳を澄ましているうちに、夜の闇が鳴る音まで聞こえるような気がした。
そうやって命を守りたいという気持ちが横溢しているのが今回の『おやごころ』という物語である。もう一つテーマがあって、本書で麻之助に持ち込まれる揉め事には、女性が何者かによって脅かされ、困っているという共通項がある。脅威となるのは「終わったこと」のようにつきまとい、今で言うストーカーというものもあるし、「おやごころ」のように肉親が女性の人生を阻害しているという場合もある。一見そうした話に見えない「こころのこり」でも、麻之助が調べを進めていくうちに、ある女性の存在が背景に見えてくるのである。「おやごころ」はいわゆるヤングケアラーの話でもあり、現代にも共通する部分がある。もう一作現代性のある作品を選ぶとすれば「よめごりょう」か。江戸時代の婚姻制度は今とかなり異なり、家と家との間で結ばれるものという性格がある。だから結婚観も違うはずなのだが、この話は最後でふっと結婚によって縛られる女性の本音が立ち上ってくる。
