生きたものとしての務め

 死刑になってしまうのか、それとも助かるのか。家族は一喜一憂しながら時を過ごし、心労が重なっていきました。しかし、獄中の人はなおさらのこと、日々、死の恐怖と向かい合わなくてはなりません。ノイローゼになってしまわれる方、自分の運命を嘆いて自暴自棄になってしまわれる方、虚無的になってしまわれる方と様々だったそうです。しかし、父はそんな中にあって、自分の運命は天に任せ、ある種、淡々と日々をやり過ごしていたようです。

 実は敗戦の衝撃に私の兄が「国が負けた以上、生きていてもしかたがない。潔く死にたい」と申したことがあります。その時、普段は穏やかな父が声を荒げて、「死んでしまった方が楽でもあろう。しかし、生かされてここにある以上、どんな状況をも生き抜いて、生きたものとしての務めを果たすべきではないか」と叱責したことがございました。

 父は決して主戦論者ではなかったと思いますが、公職にいたものとしての責任は感じておりましたし、戦犯容疑者となり、処刑されることも、早くから覚悟しておりましたようです。しかし、生きている限りは生かされた命を最大限に生きなければいけない、そんな考えを持っていたように思えます。生きるものは命の終わる間際まで、前向きに生きなくてはならない。そんな信念が獄においても自らの支えとなっていたのではないでしょうか。

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安倍洋子さん〔2016年撮影〕 ©文藝春秋

みかんの小箱と、戦後の政界に身を置いた父の姿

 みかんの皮で小箱を作り上げると、父は散歩の時間にひそかに持ち出して、東條英機さんや、元海軍大将の嶋田繁太郎さん、元陸軍中将の鈴木貞一さんらに、こっそり手渡し、側面に寄せ書きをしてもらっております。皆さん、つかの間の無聊(ぶりょう)の慰めとなったものでしょうか、どなたも、のびやかに筆をふるって下さって……。

 父が不起訴となり3年3ヶ月の獄中生活を終えて釈放されましたのは、東條元首相らが処刑された翌日のことです。その後は公職追放も解かれて政界に復帰、敗戦国の日本をどう立て直していくかが政治家となった父の最大の課題となり、また使命ともなりました。

 私には、みかんの小箱と戦後の政界に身を置いた父の姿とが重なって見えるのです。制限された状況の中でも、常に創意と工夫を図り、手に入るものを最大限に生かして、何かを根気強く造り上げていこうとする。この小箱には、父の精神の在り様が、すべて凝縮されているように思われ、私にとって、とりわけ忘れがたい形見となっております。

 このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 リーダー篇』に掲載されています。

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