1970年代に歌謡界を席巻した山口百恵(1959~)だが、活動期間はわずか7年だった。人気絶頂期に「結婚・引退」を選んだ百恵の足跡を、芸能界の育ての親で、ホリプロ創業者の堀威夫氏(1932~)が語る。
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「強い運を持っている」子
百恵を一言でいうならば、「強い運を持っている」子でした。
そもそも歌手の登竜門番組「スター誕生!」(日テレ系)のオーディションに出場したのも、本人の意思ではなかったのです。友達の代わりに出場したのですが、歌は決して上手くないし、声も弱い。アイドルとはほど遠い「暗い」イメージでした。
それでも獲得に動いたのは事務所側の事情もありました。というのは、美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミの3人娘にならい、ホリプロで3人組の女性アイドルを売り出そうというプランがあったのです。すでにスタ誕出身の森昌子、一学年上の石川さゆりがいましたから、あと一人ほしい、と。
しかも本当は、やはりスタ誕で最優秀賞を取った桜田淳子を狙っていたのです。しかし、「昌子、淳子と、同じ事務所がグランプリの子を独占するのは困る」という理由で淳子は取れず、その代わりとして百恵を取った。1972(昭和47)年12月のことでした。
翌年、歌手デビューしましたが、初のシングル「としごろ」は不振。そこで次の曲を考える前に、映像にシフトチェンジをはかったのです。ちょうど百恵デビューの翌74年が、ホリプロ15周年。付き合いのあった松竹にホリプロオールスター出演の映画企画と抱き合わせで、百恵の映画はどうかと持ち込みましたが、返事は「百恵は無理」。思案に暮れている時、「東宝の営業本部長が交代しているので話をしてみたら」という情報が入ってきた。すると、その場でOKがもらえたばかりか、「正月に予定していた映画が1本飛んだので、百恵の映画を繰り上げたい」。2本立てでメインの扱いではなかったのですが、初主演がいきなり正月公開という幸運に恵まれたのです。その作品が『伊豆の踊子』でした。
蓋を開けてみると、三浦友和との共演が評判となり、大人気となりました。このときも、百恵の相手役は公募で選ばれた東大生のはずでしたが、西河克己監督が乗り気でなく、まだ無名の演劇青年だった友和に変更したのです。まさに運命的な出会いでした。
歌の方でも、第2弾の「青い果実」をきっかけにヒットを連発。「青い性路線」と揶揄されましたが、それはこちらの作戦でもありました。中学生だった百恵に“性”を連想するような意味深な歌詞を歌わせて、聴く人に勝手に連想させる。詞で声の弱さをカバーしたわけです。「横須賀ストーリー」から起用した宇崎竜童・阿木燿子との出会いによって歌手としても大きく成長しました。