元首相の岸信介(1896〜1987)は東條内閣の商工大臣であったことからA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監された。3年3ヶ月におよぶ勾留の後、不起訴処分となり、1948年12月24日、釈放される。長女の洋子氏は外相などを務めた安倍晋太郎夫人。安倍晋三元首相の母でもある。洋子氏が、娘から見た父の意外な一面を明かす。

岸信介 ©文藝春秋

◆◆◆

 父の遺品に、手のひらに乗る蓋つきの小箱がございます。一見、陶器で出来た、お茶入れのように見えますが、実はみかんの皮で作られたもの。底に「信介作 鴨獄」とありますように、父が自らの手で、監視の目を盗んで、巣鴨の獄にて作ったものです。

ADVERTISEMENT

 なんでも散歩の時間に、庭の片隅でガラスの破片を見つけ、こっそりと房へ、持ち帰ったのだとか。それを刀の代わりにして、食事に出されたみかんを細工したのだと聞いております。

岸信介がつくったみかんの小箱 ©文藝春秋

 まず、ヘタから1センチほど下を水平に切り、内側を綺麗にくり抜く。次に紙をちぎって水に浸したものを幾重にも貼り付けていったそうです。食事の際、ご飯粒を少しずつ残して、それを練り潰したものを糊にしまして。

 もちろん、それまで家でこのようなものをこしらえた事などございません。器用な父ではないと思っておりましたのに、つくづく、よく考えついたものだと思います。それにしても、明日には死刑が確定するかもしれないという日々の中、みかんの皮で小箱を4つ、5つと人目を忍んで作る、当時の父の心中とはどのようなものだったのでしょうか。

網越しに父と向かい合った

 私たち一家が激しくなる戦火を避けて、疎開し、終戦の日を迎えましたのは、父の故郷、山口県熊毛郡田布施町(たぶせちょう)でした。父が戦犯容疑者として逮捕されたのが翌、9月半ば。これが今生の別れかもしれない。そんな悲壮な思いで後姿を見送りました。

 山口から、横浜刑務所へ、次に大森の旧陸軍捕虜収容所、さらには巣鴨プリズンへ。父は移送されてゆきました。

 まだ大森におりました頃は、制限が少なく、父の大好きな碁や、書道のお道具など差し入れることが出来ました。父は、常に何かを学び、少しでも向上しようとする人で、その点は獄中においても変わりません。本も借りられるだけ借り、英語の小説なども読んでいたそうです。

 しかし、次第に制限が厳しくなり、最低限の生活必需品しか差し入れも許されなくなってゆきました。はじめは巻紙に墨跡も鮮やかだった父からの手紙も、ざら紙に鉛筆書きとなり、字数も厳しく制限されるようになります。

 面会に参りましても、三重に張られた金網越しに、わずかな会話を交わすことしか出来ません。私は網越しに向かい合う父の姿を見て、思わず涙をこぼしました。