ときには同業者から「扱いにくい俳優」に思われたことも…日本を代表する名優・三國連太郎(2013年没、享年90)が決して曲げなかった「役者としての優先順位」とは? 三國さんと30年来の付き合いで、最晩年まで取材を続けたノンフィクション作家の宇都宮直子氏の『三國連太郎、彷徨う魂へ』(文春文庫)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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どんな監督であろうと「自分の意見」は伝える
「『ビルマの竪琴』は、たいへんやりにくかった。いろんな場面で、『違う』と思ったことを覚えています。
監督とも、ずいぶん話し合いをしたんじゃなかったかな。もうだいぶ前のことで、詳しくは覚えていませんが」
市川崑は驚いたかもしれない。デビュー五年目のまだ経験の浅い役者が、臆せず重ねる提言に。
「市川さんに限らず、他人がどう思うかなんて、僕はこれっぽっちも気にしません。一度も気にしたことがない。自分の信じるところと違えば、それがどんな監督であっても、意見を聞いていただきます。
僕はエゴイストなんですよ。他人が失敗するのは一向に構いませんが、自分が失敗するのは許せない。言い争いも、しょっちゅうでした。こだわりのある、頑固な連中が多かったですからねえ、あの時代は。
生意気なようですが、監督は、作品に自分の首を賭けなきゃならんと僕は思うんです。それは決して難しいことじゃありません。やろうと思えば、誰にだってできる。
それに、これは本心から言うんですが、優れた監督、優れた脚本家と認めた人により反発していました。それが癖なんです、僕の」
