利用者の利便は、乗客のいのちを賭けて成り立っていた

 当然、発車が遅れ、電車の遅延は恒常的になってくる。整列乗車の呼びかけや「ゆとり」の時分でやりくりできる問題ではない。それでもなお、尼崎駅にダイヤ通りに着いていると言うなら、途中の「回復運転」のために、運転士が相当に電車のスピードを上げているはずだ。ダイヤの速達化と本数増加で利用者の利便をはかるという営業施策は、乗客のいのちを賭けて成り立っていたに過ぎない。

 事故調の『報告書』は、福知山線の直線区間やカーブ区間における電車の暴走を防ぐATS‐Pの設置遅れという状態の中でのダイヤの問題点を、次のように厳しく論じているのを、木下はいつも頭に浮かべていた。

〈定刻どおりに運転されることが少ない列車運行計画とするべきでないことは言うまでもないことであるが、曲線速照機能(筆者注・ATS-P車上装置のこと)等の運転操作の誤りによる事故を防止する機能がない列車を時速120キロという速度で運転させるのであれば、その運行計画は相応の時間的余裕を含んだものとすべきである。〉

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©文藝春秋

「逃げ口上ばかり並べる説明なんか聞いていられない」

 木下は、このまま議論を続けると、自分が怒鳴り声を上げるだろうと直感した。だが、わずかながら残っていた冷静さが、その感情を抑えた。

《ここで自分が爆発して、会議の進行を行き詰まらせたら、せっかく淺野さんが我慢に我慢を重ねて、責任追及を棚上げしてでも、事故の真相を解明し、JR西日本を安全性の高い鉄道事業者にしようとして対話の場である検証会議を発足させたのに、その対話の場を決裂させ破壊させかねない。だが、自分はこの席に座っていたら、感情を抑え切れないだろう。》

 そんな思いが頭の中で渦巻くのを自覚した木下は、

「人が死んでいるのに、そんな逃げ口上ばかり並べる説明なんか聞いていられない」

 と投げ棄てるように言うと、机の上の資料をまとめて鞄に入れるや、席を立って会議室から出て行った。一瞬、沈黙が支配し、会議のテーブルが凍りついた。

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