「転向者」の自覚
当時独身の上野に対し、現実の問題として「父」になっていた加藤はこのとき、いささかばつが悪そうだ。しかし上野が対話で口にした「持ちこたえる」という表現を反芻し、「かつていちど世界との間に持った関係をどう持ちこたえるかというさっきの話は、ぼく達の話したことの一つの核心だ〔4〕」と問いを引きとる。
敗戦後の文学史、いや日本の近代史を貫く転向者のひとりとして、自分もまた居るという自覚が、芽生えた瞬間だったかもしれない。
青春のメタファーでいまも描かれる60年代末からの学生運動期は、実際には日本の戦後が壮年を通り越す時代だった。若いうちはあたりまえに見えた振るまいに、翳りやぎこちなさが兆し、すべてが疑わしく不確かなものに映り始める〔5〕。
このとき居直って、嘘だと知ってもできあいの父なり母なりのイメージを受け容れ、自身の履歴を「日本」や「国家」と等置してしまえば、いくらでも小説や論説が書ける。今日ふうに喩えれば、ちょうど生成AIが自動筆記するように量産できる。
過去の受け渡しがありうるなら
加藤も上野も、持ちこたえられずその状態に陥った年長者の典型として、対談では江藤淳に手厳しい。しかし、その江藤との(実際の対面に留まらず)内的な対話が以降も続いたことは、両名の著作の端々から見てとれる。
先を行く世代と「同一の体験を共有する」形で歴史が続くことは、日々に暮らしが改まり人びともばらばらのセグメントに分かれる21世紀には、どの国でも起こり得まい。過去の受け渡しがありえるとしたら、それは遺されたテクストの彼方に結ばれる作者の像と語りあう、開かれた対話としてでしかないだろう。
〔2〕石原慎太郎「江藤は評論家になるしかなかった」中央公論特別編集『江藤淳1960』中央公論新社、2011年、186頁。
〔3〕上野千鶴子・加藤典洋「戦後と女性 その崩壊と創造」『加藤典洋の発言2 戦後を超える思考』海鳥社、1996年、33・34頁。「不機嫌な家長」「闘う家長」は上野が江藤と並置する(17頁)、山崎正和の『鴎外 闘う家長』(72年)に宛てた批判であろう。
〔4〕同書、61頁。
〔5〕当時の世論調査でも、生活が前年より向上し今後も「よくなる」と答える割合のピークは1970年で、以降は低下に転じていた(古市憲寿『昭和100年』講談社、2024年、84・85頁)。
