1985年に徳仁親王が留学を終え、日本に帰国すると、メディアの動きは活発になる。帰国前から、この問題について、再び記事が複数出始める。そのうち、ジャーナリストの大谷新生は、徳仁親王のイギリス留学が結婚相手の条件を変化させたと論じている。具体的には、大谷は「ご両親殿下の交友関係か旧皇族、旧華族の周辺の可能性が強い。家柄や身上調査がすみやかに進むからである」としつつ、「イギリス留学以来、浩宮様が自分の意見を披瀝できるような女性を好まれるようになっている」と書いた。つまり、家柄のような「権威」とは異なる新しい女性のあり方が徳仁親王の結婚相手には求められるとしたのである。とはいえ、必ずしもまったくの普通の女性とも考えられてはおらず、「皇族や旧華族と血縁関係を作った財界の一部」である「新貴族と呼ばれる階層」が相手になると大谷は見た。これまでのような「権威」ではないものの、ある程度の家格を有する存在であることが徳仁親王の結婚相手の選考をめぐる報道の根底にあり、求められていた象徴天皇制の姿ではないだろうか。この後も、結婚相手をめぐる報道は継続していく。

小和田雅子さんは「指折りの才女」「旧華族の出身でも財界人の令嬢でもない」

1994年11月、サウジアラビア・リヤド郊外の「赤い砂漠」を訪れられた皇太子ご夫妻(当時) ©時事通信社

 そして1988年、外務省勤務の小和田雅子の名前が、有力候補として女性週刊誌に登場する。「旧華族の出身でも財界人の令嬢でもない」彼女の名前の浮上は、前述した意識があったなかで、驚くべきものだったと思われる。これまで報道されてきた候補とは「いささか趣が異なる。とにかく日本でも指折りの才女といっても差し支えない」という評価は、1986年に施行された男女雇用機会均等法に象徴されるような新しい女性の代表としての姿を示した。「権威」ではない、「人間」としての徳仁親王の結婚を人々に予感させたのである。ただしこのときは、二人は結婚までには至らなかった。

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