「要するにもう、学習院か聖心かというような、そんな時代じゃないんですネ」

 このように昭和の時期、徳仁親王の結婚報道は、「権威」に戻るか否かという点が一つの焦点となった。たとえば翌年に『週刊新潮』は常磐会が了解できる候補者として、三井家の女性が最有力にあがっていると報じる。「権威」が揺り戻しているとする見方である。さらに1980年には、『週刊文春』が「元華族対民間の戦い」との見出しを掲げ、徳仁親王の結婚が「権威」をめぐる争いになっていることを読者に示す。さらに『週刊新潮』は翌年にも、そうした問題がある一方で、皇太子夫妻が積極的に選考に取り組んでいることを紹介している。『週刊ポスト』は、元華族出身の評論家酒井美意子の「要するにもう、学習院か聖心かというような、そんな時代じゃないんですネ」という声を紹介しつつ、しかしそうした新しさにふさわしい結婚相手が見つかるのかといった論調の記事を掲載している。こうした記事は、基本的には象徴天皇制には新しい風が必要であり、そのためにも徳仁親王の結婚相手はそうした「人間」としてのあり方、言い換えれば後の「開かれた皇室」を先取りする結婚が必要だという考え方があった。しかし同時に、「権威」からの揺り戻しがあるだろうという見方も提示する。そこには、「権威」と「人間」との対立を「消費」する態度が存在していたと言えるだろうか。「ソッとしておいてやりたいが、マスコミとしては……。ゴメンナサイ」と結ばれた週刊誌の記事があったように、将来の天皇になる徳仁親王の結婚相手が誰になるのかは、メディア、特に週刊誌などの雑誌にとっては格好の「消費」の対象となった。

イギリスご留学中に「宮内庁が選考を進めている」との報道

1993年1月19日、婚約内定記者会見での皇太子さま(当時)と小和田雅子さん(当時) ©JMPA

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 その後も、候補として具体的な女性の名前があげられつつ、選考が進んでいると報じる雑誌記事は相次いだ。しかし、徳仁親王が1983年よりイギリスへ留学すると、その報道はやや落ち着くことになる。とはいえ、まったく無くなったわけではなかった。この間に宮内庁が選考を進めているとして、「“浩宮お妃班”を作り、お妃探しに専念し始めた」新聞社があることを『週刊新潮』は報じている。メディアは、ミッチー・ブームのときと同じように徳仁親王の結婚相手を見つけるべく、動いていたのである。