2025年7月16日、都内にて第173回直木三十五賞の選考会が開かれる。作家・芦沢央氏に候補作『嘘と隣人』(文藝春秋)について話を聞いた。(全6作の3作目/最初から読む

芦沢央氏 ©藤岡雅樹

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元刑事が“刑事事件”に関わる作品集

 ミステリ・ランキングの常連である芦沢央さんの候補作は、刑事の仕事を定年退職した平良正太郎(たいらしようたろう)が活躍する連作ミステリだ。主人公を“退職刑事”にしたのにはどんな狙いがあったのか。

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「過去と現在で事件に対する向き合い方が明確に異なる人を描いてみたかったんです。収録作で最初に書いたのが『アイランドキッチン』で、ふとしたことから現役時代に担当した事件を思い出した正太郎が、そこに別の真相を見出す、という趣向のものでした。

 刑事時代は事件解決が仕事ですから、なぜ事件に向き合わなければいけないのかを考える必要がなかった。ですが、退職後は捜査権限も調べる義務もない。なぜ探偵役が事件に関わるのかに重点を置いたミステリは他にもありますが、主人公を退職後にすれば、現役時代には考えなかった側面についても考えざるを得なくなるのではないかと思いました」

 時が経ち、立場が変わることによって違った景色が見えてくる。それは正太郎個人の変化に留まらず、近年の急速な社会情勢、価値観、倫理観の変化についても当てはまる。

「現代社会においては正しさや倫理観って急速に変わり続けていますよね。だけれど、価値観のアップデートは歳を重ねれば重ねるほどしんどくなる。過去の自分を否定しなければならなくなるから。そういう状況のなかで正太郎がどう事件に向き合っていくのかも本作では考えてみたかったんです」

 通常の刑事モノと一線を画すのはこれだけではない。主人公の事件との出会いからして独特で、退職刑事という設定が活かされている。

 たとえば第一話「かくれんぼ」。外出先で出会った娘のママ友に自転車を貸してほしいと唐突にお願いされる導入を経て、正太郎は思いがけず事件に関わっていくことになるのだが……。

「これまではあらゆる要素が一つの真相の伏線として機能するような“造形美”を目指して書いてきましたが、今回は私自身書きながら何が起こるのかを探っていきました。現実の日常は唐突に歪(いびつ)にひび割れるものだと思うので」

 終盤のどんでん返しにも短編の名手の腕が光っている。それまでの物語の見え方が一変し、背筋が寒くなるような恐ろしさを湛える。芦沢ファンならずとも読み応え十分だ。

 ちなみにこの平良正太郎、九月にテレビドラマ化される『夜の道標』にも主要キャラクターのひとりとして登場するほか、今号には続編となる「コールバック」を掲載。これからの芦沢作品のキー・キャラクターとしてどんな展開をみせるのか、目が離せない。

芦沢央『嘘と隣人』(文藝春秋)

芦沢央(あしざわ・よう)
1984年東京都生まれ。2012年『罪の余白』で野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。22年『神の悪手』で将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞、23年『夜の道標』で日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)を受賞。他の著書に『汚れた手をそこで拭かない』『許されようとは思いません』『火のないところに煙は』『カインは言わなかった』『魂婚心中』など多数。

嘘と隣人

嘘と隣人

芦沢 央

文藝春秋

2025年4月23日 発売

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