映画などで、フィクションを現実と見せて描く手法をモキュメンタリーというらしい。第一話の出だしから、語り手が著者本人であるとわかるこの小説は、果たしてそういう手法のフィクションなのか、あるいは実話なのか。
著者が友人から受けた相談に基づく話が第一話で、小説誌に掲載されたそれを読んだべつの友人が、自身の体験した奇妙な話を著者に語る、というふうに、友人や知人を介したバトンリレーのように怪異譚が紡がれていく。それら奇妙なできごとの体験者は性別も年齢もばらばら、体験したできごとにも共通性はない。
この連載の途中で、著者は「怪異というものが人智を超えた事象である以上、そこに論理的説明をつけようとすること自体が常に誤りを内包する」と気づき、そう記す。たとえば「ふざけ半分で心霊スポットにいったグループが次々変死」というような因果や法則は、怪異にはないのではないか、ということだ。私はこの言葉に妙にとらえられた。
現実において理解できない凶悪な事件が起きたとき、私は無意識に論理的説明をさがしている。自分がその論理から外れていると理解して安心したいためだ。ここで描かれている怪異でも、それは同じだ。もしここに書かれたことすべてが事実だとして、でも、私はこれらの呪い(のようなもの)にはつかまらないはずだ、その占い師ともお祓いとも家ともアパートとも無関係なんだから。だから私(だけ)はだいじょうぶ。そう信じることができる。
最終話で、今までばらばらだった五つの話の共通項があらわれてくる。しかし著者はその共通項を「論理的説明」には落としこまなかった。だから、そうだったのかと思う一方で、何かつかみそこねたような不気味さも残る。それはおそらく著者の巧みな計算だろう。この最終話によって、読み手は安心することはない。私には関係のないことだからだいじょうぶと言い切ることができない。何か得体の知れないものが、私のすぐそばまでやってきたような錯覚すら抱くかもしれない。そこでふっと私は不思議な気持ちになる。その、「すぐそばまでやってきた」ように思えるものはなんだろう? 呪い? 不慮の事故? 幽霊的なもの? 怨念や怨霊? いや、そうではない。もっと違う何かがこわい。もっとふつうに、日常的に、私のまわりにあるもの。気づかないようにすれば、気づかずにすむもの。それが、この小説には描かれているのだと思う。実際私は、この小説が、フィクションか実話かなど途中からどうでもよくなっていた。現実を超えた怪異の恐怖とともに、現実の持つ恐怖をもこの小説はとらえている。そのことがまさに、架空と現実の融和に思えた。
出典=文藝春秋2018年8月号