試合終了のホイッスルが鳴ると本田圭佑は腰に手をやり、天を仰いだ。
ベルギーに敗れ、号泣する乾貴士らを抱きしめ、涙もなく静かにピッチを後にした。
「僕にとって(このW杯が)最後になる。次のW杯に出ないと思います」
本田は、ハッキリとそう言った。
「ホンダケイスケ」という一つの時代が終わった瞬間だった。
本田が日本サッカー界の表舞台に躍り出たのは2008年であり、その登場の仕方はかなり独特だった。
当時、日本代表のエースは中村俊輔だった。
本田は、トップ下のポジションに座るエースに成り代わろうとして中村をロックオンしたのだ。その徹底ぶりはすざましく中村とは口は利かない、パスを渡さない、FKも譲らなかった。本田は自分が成り上っていくために敵意をむきだしにして「俊輔狩り」を徹底したのだ。
本田の転機は2010年のW杯
転機になったのは、2010年、南アフリカW杯だ。
1トップに抜擢されると初戦のカメルーン戦でゴールを決め、一気にスター選手になった。
それからブラジルW杯まで4年間、本田はわが世の春を謳歌した。
2010年1月に移籍したCSKAモスクワでは中心選手に成長、チャンピオンズリーグにも出場し、欧州に「ホンダ」の名前をとどろかせた。
日本代表では、ザッケローニ監督の下、攻撃的サッカーの中心になった。
香川真司、遠藤保仁、岡崎慎司らと「自分たちのサッカー」を構築し、「W杯優勝」を公言した。そのために同じ代表チームの選手たちに妥協を許さなかった。世界と対等に戦うために個の成長を求めつづけたのだ。そういう本田の「哲学」に意識付けさせられた選手は、いつしか「W杯優勝」を口にするようになり、「ブラジルW杯で世界を驚かす」が合言葉になっていった。
チームは大きく成長した。
アウェイのフランス戦ではカウンターを決めて勝ち、ベルギー、オランダには互角の勝負をした。ブラジルにはこてんぱんにやられたが、それとて強くなるための糧になると本田は下を向くことはなかった。本田を軸としたチームは、その完成度の高さから国内、国外、そしてチームの選手たちも期待していた。ブラジルW杯は、日本の攻撃的なパスサッカーが世界を驚かせるだろうと。
実際、そうなる予感はあった。
ブラジルW杯の緒戦のコートジボワール戦、本田は先制点を叩き込んだ。
ブラジルW杯は本田の大会になると、その瞬間は誰もが思ったはずだ。しかし、その後、逆転負けを喫し、チームはつづく10人のギリシャにも勝てず、最後はコロンビアに個の差を見せつけられ、1勝もできずにブラジルを去った。「史上最強」と言われたチームは、力を出し切れずに終わった。この時の本田の悔しさは、いかばかりだったか。本田プロデュースともいえる代表チームが機能しなかった現実は、その後の本田のサッカー人生を少なからず狂わせたはずだ。