人生をナマのまま味わうには
こうしてみると、記憶がなくなるとトラブルの大半は回避できるが、それだけではない。
何よりも、人間の生き方の根本に影響する。人間は、ともすれば過去に拘泥して、人生を見失いがちだ。だから「いまという瞬間を生きろ」と叫ばれたりするのだ。だがそれを実行するのは至難の業だ。どうしても過去にこだわってしまうからだ。
だが記憶力がなくなれば、簡単に「いまという瞬間を生きる」ことが実現し、そのとき人生をナマのまま味わうことができる。
最後に本書の楽しみ方だが、本書を買ったら、忘却力を発揮して、買ったことを忘れていただきたい。そうすれば、購入時の喜びを何度も味わうことができる。これこそ最高の読書の楽しみ方だ。
なぜかというと、何事も、必要なものを買うときほど、心ときめく瞬間はない。教科書でさえ、入学時に新しい教科書を手にしたときの興奮をピークとして、時間とともに低下するし、ゴルフの道具でも楽器でも買うときが一番胸ときめく瞬間だ。時間がたつと、教科書も楽器もゴルフの道具も見飽きてしまい、最後には見るのもイヤになってしまうのがふつうである。
娯楽本も例外ではない。本書を購入したときの喜びをいつまでも味わうために、購入したことはさっさと忘れ、すぐに再購入することをおすすめする。
著者プロフィール
土屋賢二●岡山県玉野市生まれ。お茶の水女子大学名誉教授。哲学者。『週刊文春』で「ツチヤの口車」を長期連載中。2020年には、連載をまとめたエッセイ『無理難題が多すぎる』が本屋大賞の発掘部門を受賞。2025年7月に『記憶にありません。記憶力もありません。』を刊行。
