中島澄子さんが語った“壮絶すぎる戦争体験”
澄子さんの父は、太田副団長の兄だ。弟の仕事を助けるために渡満し、家族7人を呼び寄せた。ソ連参戦時は45歳を超えていて動員されず、人々を率いて逃げた。
ソ連軍を避け、山中の逃避行を1カ月半ほど続けた。「見つかるとバンバン撃たれます。『子供を泣かせるな』と言われて、殺したり捨てたりした母親もいました。子を殺した女性の中には自殺した人もいます」と、澄子さんは証言する。
ソ連軍は飛行機で「日本は戦争に負けた」と宣伝したが、信じられなかった。泥水をすすり、畑に残された作物などを食べて逃げ続けた。歩けなくなった子は置いていくしかない。運が良ければ地元民に拾われ、残留孤児として生き延びた。
食事ができると聞いて朝鮮人集落を訪れた時だ。襲撃が始まり、女性が倒れた。死んだのが分からないのだろう。「お母さん、逃げようよ」と、男の子2人がすがっていた。連れて逃げる余裕はなかった。
暴徒に襲われて川を渡った時には大勢流された。渡河できない高齢者は置いて行かざるを得なかった。
死体が山のように積まれていった
投降し、旧日本軍の兵舎に入れられたのは10月だったと記憶している。置いてあった軍服や毛布はソ連兵に奪われ、草を敷いて寝た。
「男の人が大きな穴を掘りました。栄養失調や病気で死んだ人を入れるのです。山のようになっていきました」と澄子さんは語る。死体から衣服などをはぎ取る現地人もいた。極寒の地だけに遺体はすぐに凍ってしまう。脱がせるために首や腕が切断され、野犬にも食い散らされた。
12月、ソ連兵が兵舎を襲った。一緒にいた太田副団長の妻は出産直後で逃げられなかった。このため赤ん坊と一緒に命を落とした。
太田副団長が妻の行方を探して尋ねて来たのは、その後だった。この時、副団長はなぜかソ連兵に留置場へ入れられた。1週間後に釈放された時には衰弱し切っていた。
年が明けて1946年2月、猛吹雪の中を幌もない馬車で移動させられた。弱った人が荷台から落ち、置き去りにされていく。目的地に着いた時、太田副団長は死んでいた。1週間後に澄子さんの父も亡くなった。
生き残った千振開拓団員714人が帰国したのは8月だ。澄子さんは、父母と下の弟を失っていた。



