1945年8月15日、太平洋戦争は終戦を迎えた。だがその直前、ソ連軍が旧満州に侵攻。現地の開拓民の中には、終戦後もなお過酷な状況下での逃避行を強いられ、本土への帰還に長い時間を要した人もいた。

 地方自治ジャーナリスト・葉上太郎氏の著書『47都道府県の底力がわかる事典』より、旧満州から引き揚げた人々の集落「栃木県那須町千振」に関する章を紹介する。(全2回の第1回/後編を読む/※年齢・肩書きは取材当時のものです)

旧満州から引き揚げた人々の集落「栃木県那須町千振」 ©︎葉上太郎

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平成の天皇が2度も訪問

「昭和の戦争」と平和にこだわった平成の天皇が、戦後60周年と70周年に2度も訪問した土地がある。栃木県那須町の()(ふり)だ。中国東北部の「旧満州」から引き揚げた人々が那須山麓に開拓した集落である。

 千振は特殊な集落だ。全国の引き揚げ集落が開拓の色を薄めていく中で、強い団結力を維持してきた。

 なぜなのか。それを語るには戦前にさかのぼらなければならない。

 中国東北部を占領した日本は1932年、満州国という傀儡(かいらい)国家を建てて、農村部から大量の開拓移民を送り込んだ。そのうち、七虎力(チーフーリー)に入植したのが千振開拓団だ。抗日勢力などに対抗するため、14県から選抜した在郷軍人ら約500人に武装させて開拓に当たらせた。

 当初は戦闘で犠牲者が出た。(そう)光彦・初代団長は現地の人々との「融和」を図り、「満州開拓の手本」と言われるようになる。団員は日本から家族や結婚相手を呼び寄せ、出身県ごとに集落を作った。だが——。

終戦6日前にソ連軍が侵攻

 1945年8月9日、6日後の終戦を前にして旧ソ連軍が満州に攻め込んだ。開拓団には11日に避難命令が出され、避難列車が運行された。

 しかし16~45歳の男性は事前に動員されて、吉崎千秋・第二代団長や太田宗次郎・副団長ら約100人が千振を離れていた。残された家族約1200人は、3分の1が乗り遅れたり、残留を決めたりした。

 残留した宮城集落の81人は追い詰められて集団服毒自殺する。

 乗り遅れた人々は徒歩で逃げまどった。中島澄子さん(95)もその中にいた。現在の千振集落の最長老である。陛下に面談した一人だ。