1945年8月15日、太平洋戦争は終戦を迎えた。だがその直前、ソ連軍が旧満州に侵攻。現地の開拓民の中には、終戦後もなお過酷な状況下での逃避行を強いられ、本土への帰還に長い時間を要した人もいた。

 栃木県那須町の「()(ふり)」という集落は、そうした旧満州の「七虎力(チーフーリー)」に入植していた開拓移民たちが、日本へ引き揚げたのちに開いた集落だ。命からがら逃げ延びた開拓民たちがこの土地に刻んだ“歴史と記憶”とは——。

 地方自治ジャーナリスト・葉上太郎氏の著書『47都道府県の底力がわかる事典』より、旧満州から引き揚げた人々の集落「栃木県那須町千振」に関する章を紹介する。(全2回の第2回/前編を読む/※年齢・肩書きは取材当時のものです)

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約80人の引き揚げ者たちが再集結

 帰郷した団員の一部に「再招集」の葉書が届いたのは、それから1カ月ほど後だった。有志十数名の先遣隊が、那須山麓にあった旧陸軍の軍馬牧場を新たな入植地に決めて、呼んだのだ。

 獣医、農業指導員、大工、助産師、理容師、農具作りの職人……。全員で農業をするのだが、開拓に必要な人材が選ばれていた。

 先遣隊に加わった中込(なかごみ)敏郎さん(92)は「帰還した吉崎元団長らが相談して選抜したのです」と話す。引き揚げ者は郷里でも居場所がなく、多くの人が応じたようだ。

 集落は「千振」と名付けられ、11月7日に入植式が行われた。

 約80人の参加者には、夫がシベリア抑留中の女性が10人ほどいた。亡くなって帰還できなかった場合、開拓者同士で再婚するなどした。

 中島澄子さん(95)は富山の実家に帰っていたが、旧満州で隣に住んでいた中島清一さん(死去)に再婚相手として呼ばれた。清一さんは逃避行で妻子を失い単身帰国した。千振には大工の経験を買われて参集した。

壮絶な体験を語る中島澄子さん ©︎葉上太郎

「酪農で暮らせるようになるまでに20年かかりました」

 入植から1年間は、旧陸軍の厩舎を改造して全員で共同生活し、篠竹(しのだけ)が覆った土地を(くわ)で掘り起こした。それから出身県別に5~6軒ごとの組で入植地を決め、土地を分けた。長野、山梨、富山といった県名は今も組の名称として使われている。

 標高450~550メートルの高冷地。冬にはマイナス10度を下回る。春先の強風「那須おろし」は風速15メートル以上になる。土地は強酸性でやせていた。

 雪が降り込むような家に住みながら、ジャガイモやトウモロコシを植えたが、実りは悪かった。冷害で収穫がほとんどない年もあった。

 厳しい自然環境に耐え、堆肥で土壌改良を進めるには酪農しかないと人々は思い定めていく。

「酪農でなんとか暮らせるようになるまでには、20年ほどかかりました」と澄子さんは語る。

 それが今や栃木県でも有数の酪農地帯に発展した。入植三世の代では勤め人が増えたものの、現在65戸のうち18戸が酪農家だ。