「助けてくれ!もういじめへんから!」ーー昭和59年に騒ぎになった、2人のいじめられっ子による復讐事件。被害者は、文武両道、優等生として知られる生徒会長だった。事件を追っていくうちにわかった「優等生によるひどいイジメ」とは? 復讐を果たした2人はその後どうなったのか? 我が子を無惨に殺された親、学生時代ひどいイジメに遭った者などが仕返しを果たした国内外の事件を取り上げた新刊『世界で起きた戦慄の復讐劇35』(鉄人社)のダイジェスト版をお届けする。
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1984年11月、大阪市中央区の大川で発見された水死体。半裸で頭部を鈍器で滅多打ちにされた遺体は、大阪産業大学高校の1年生Cくん(当時16歳)と判明した。この事件の犯人は、なんと彼と同じクラスの同級生AとB(共に16歳)だった。彼らがクラスメイトを殺害するに至った背景には、日常的な壮絶ないじめがあった。
「シンボルを握ってシゴけ」学級委員長による陰湿ないじめの実態
文武両道の優等生だったCくん。学級委員長を務め、柔道部でも活躍する模範的な生徒に見えた。しかし、AとBが柔道部を退部した1984年7月以降、彼は二人に対して周囲に悟られないよう陰湿な暴力を振るうようになった。授業のノートをすべて取らせるだけでなく、絵の具を顔に塗ったり、他の生徒とトラブルを起こさせたりと、様々な嫌がらせを繰り返した。
決定的だったのは、昼休み中に人前での自慰行為を強要されたことだ。AとBが「それだけはできません。勘弁してください」と懇願しても、Cくんは容赦なく殴りつけ、従わせた。さらに驚くべきことに、その様子を見たクラスメイトが驚き、女子生徒が悲鳴を上げる中、Cくん自身が現れ「おまえら何をやってるんや! 女子もおるんやぞ!」と叱りつけるという芝居まで打った。すべては自分がヒーローとして見られるための陰湿な演出だった。
いじめはさらにエスカレートし、休みの日には二人を呼び出して吸えないタバコを吸わせる、飲めない酒を飲ませる、学校を休ませて性玩具を買いに行かせる、女性教師に卑猥な言葉を言わせたり、目の前で性器を露出させるなど、度を超えた行為が続いた。
AとBは担任教師に相談したが、「Cくんがそんなことをするわけがないだろう」と一笑に付された。彼らはやがて「このままいけば、いつか恐喝などで警察に捕まるか、逆らってCくんに殺されるかどっちか」と追い詰められ、自分たちでCくんを殺害するしかないという結論に達した。
復讐の日
1984年11月1日、創立記念日で学校が休みの日、彼らはCくんと靱公園で会い、「天満橋に行けば、もっといい自転車がある」と持ちかけて毛馬桜之宮公園へ誘導。19時40分頃、Aが隠し持っていた金槌でCくんの頭を殴打した。転倒したCくんは「助けてくれ!もういじめへんから!」と叫んだが、2人は約10分間にわたって金槌で滅多打ちし、さらに釘抜きの部分で左目をえぐり取るという残忍な行為に及んだ。最後に、意識を失ったCくんの体を引きずり、大川に投げ込んだ。
翌日、無残な水死体が発見され、指紋と掌紋が決め手となり、11月11日にAとBが逮捕された。彼らは自主退学勧告を受け、中等少年院送致処分となった。
一方、学校側の対応は問題含みだった。事前にいじめの相談を受けていた担任教師は「そんな事実はない」と否定。校長も「2人が自分たちの立場を有利にしようとして発言したとしか思えません」とAとBの主張を退けた。Cくんの母親は「なぜ殺された息子が悪く言われなければならないのか」と怒りを表明した。
結局、いじめを放置したとして校長を含む6人の教師が懲戒処分となったが、担任教師には一切お咎めがなかった。理由は明らかにされていないが、他教職員の多くが担任の責任追及に反対したことが影響したとされる。
AとBは少年院を退所後、Cくんの墓に参ったとされるが、その後の人生については伝えられていない。この事件は、表面的な評価に惑わされ、被害者の声に耳を傾けなかった教育現場の問題、そして追い詰められた少年たちが最悪の選択をしてしまったという、二重の悲劇として記憶されている。
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