風船爆弾づくりは東京宝塚劇場でも

 東京の街でも、風船爆弾づくりがおこなわれた。

 そのうちのひとつの場所は、東京宝塚劇場。

 そう、いまなお有楽町にある、あの少女たち憧れの地、東京宝塚劇場である。

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『女の子たち風船爆弾をつくる』は第78回毎日出版文化賞を2024年に受賞

 直径10メートルの風船を膨らませるにあたり、秘密兵器であるからして外からは見えない天井高のある場所が必要、ということで劇場が選ばれた。そもそも戦時下にあって、劇場などというものは「不要不急」のものだったのだから。劇場は閉鎖され、軍のものになっていた。かつてその劇場で公演していた宝塚歌劇の少女たちは劇場を追い出され、慰問公演のために北支の前線へ遣られるか、女子挺身隊として工場で働くことになった。

 そうしていまや、兵器工場と化した東京宝塚劇場へ動員されたのは、雙葉、跡見、麹町の高等女学校2年と4年、いまでいうところの、中学2年と高校1年、10代の女学生たちであった。

Mさんとかっぱちゃん。「Mさん」はYさんの同級生。「かっぱちゃん」はMさんの親友 ⒸErika Kobayashi, Yutaka Kikutake Gallery

 私が風船爆弾について知ったのには、ふたつのきっかけがあった。

 ひとつは、これまで私は長らく核の歴史をテーマに『光の子ども』というマンガを描いていたので、アメリカのマンハッタン計画を調べるうち、風船爆弾という兵器のために原爆製造が遅れたという話に辿り着いたこと。ついでにいえば、ドイツで放射能研究を行っていた科学者たちが参加していた毒ガス開発について調べてゆくなかで、日本でも毒ガスを作っていた大久野島を訪れ、そこでも風船爆弾づくりが行われていたことにも、私は出くわしていた。

 もうひとつは、私は小学校から高校まで、キリスト教カトリックの学校へ通っていたのだが、その保護者会で母が聞いてきた話を、私が覚えていたこと。それは、同じくカトリック校である雙葉高等女学校の生徒として、かつて風船爆弾をつくった、というシスターの話であった。

 私の中で、そのふたつが結びついたとき、風船爆弾というものに、俄然興味が湧いた。

※本記事の全文(約9400字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(小林エリカ「風船爆弾をつくった少女たちの抵抗」)。

出典元

文藝春秋

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