太平洋戦争中の日本で進められていた原爆開発計画を、昭和史研究家の保阪正康氏が検証する。原爆開発に焦る東條英機は、研究を担う仁科芳雄を恫喝するように急かしたという。

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サイパンを原爆で吹っ飛ばす

 昭和18年秋になると、戦局は明らかに日本不利に傾いた。この頃になると軍事指導者たちは科学技術に一縷の望みを託すようになる。新型兵器の開発と、効率的な兵器の量産体制を整えなければ米国に対抗できないと檄を飛ばす。

 昭和19年1月、政府は「戦時研究員服務心得」という5カ条の訓令を発表し、「科学技術者は研究室を戦場にすべし」と、科学者を戦争の下僕とするよう訴えた。その第4条には「主任戦時研究員は其の担当する研究課題の解決に付全責任を負荷せられるものなるを自覚し……」とあった。こうして叱咤すれば科学者が米国を負かす発明をしてくれるだろうという浅はかな見識だった。

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 戦況が不利になるにつれ、陸軍上層部はさらに焦りを募らせる。仁科は当初月に2回、陸軍航空本部に「ニ号研究」の現状を報告書で提出していた。しかし航空本部の上級将校たちは、実験データが並ぶ報告書を見ても何も理解できない。地道な客観データの収集・分析が研究の基本であることを理解せず、ただ「ウラン爆弾ができるのか?」という結論だけを求めて製造を迫った。

 ついには首相の東條自らが仁科に直接連絡を取るようになった。仲介者を通じて二人は手紙のやりとりを続けた。だが、そこで何が語られたのか――それはいまだに謎である。

東條英機 ©時事通信社

 東條が戦局を変えることができず、天皇からの信頼も失って権力の座から去ったのは、昭和19年7月18日である。

 その頃、陸軍兵器行政本部第8技術研究所の技術少佐・山本洋一(のちに日本大学教授)は、兵器行政本部長の菅晴次中将から「ウラン10キログラムを大至急集めよ」と命じられた。東京帝大理学部鉱物学科卒業の山本は、その意味を即座に理解した。「いよいよウラン爆弾を作るのか」。

 当時、山本は理研のニ号研究を知らなかったが、菅に確かめたところ、東條が「とにかくウランを集めろ」と、せっつくようにして菅に命じてきたというのだ。東條がウラン爆弾に最後の望みをかけていたことがよくわかる。

 山本は昭和50年代後半に、半身不随の身をおして、私の取材に丁寧に答えてくれた。

「サイパンを失うと、急にウランの話が持ち上がってきた。何が何でもウランを探せという。日本の原爆投下目標はサイパンだと、我々技術将校も上層部も知っていた。サイパンを原爆で吹っ飛ばしてしまえば、本土爆撃は避けられる。だから一刻も早くせよ、ということでした。陸軍の上層部は、そんなことが簡単にできると思っていたんだよ」