山本は理研を訪問し、仁科に面会した。ところが仁科は「この研究は機密事項なので、陸軍でも管轄外の人には話せない」と言う。また、「なぜ兵器行政本部が動き始めたのか? 米国でウラン爆弾に成功したとの情報でも入ったのか?」と山本に質したという。それを聞いて山本は「ああ、仁科先生の研究はうまく行っていないのだな」との感触を持ったと話していた。

 山本は理研の職員らとともに、ウラン鉱探しに奔走する。そして、福島県石川町で微量のウランを含むペグマタイトという岩石が産出されるとの情報を得る。昭和20年春から近隣の中学生などが動員され、ペグマタイトの採掘が始まった。しかし、実験に必要な量を確保することなど、まったく不可能だった。

科学者を恫喝した軍人たち

 そうした客観的事実を、陸軍上層部は受け入れなかった。東條は科学者たちへの不満を周囲にぶつけている。秘書官だった赤松貞雄の『秘書官日記』にはこんな発言が記録されている。

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「技術家は、九分九厘まで実験してからでないと、実際化しないことが多い。時の重要性を考えないから困ったものだ」「研究だけでは戦争に勝てない」

 東條の焦りはそのまま国策に反映する。調子のいい時には科学者などには見向きもしないのに、戦況が悪化すると、途端に「戦況を一変させる兵器を作れ」「軍の命令を聞けないのか」とわめき散らすのだ。

保阪正康氏 ©文藝春秋

 東條の意を忖度した部下たちは、科学者たちに有形無形の圧力を加え始める。仁科研究室にも航空本部の将校が頻繁にやってきた。研究室にいた竹内柾(のちに横浜国立大学名誉教授)は、こう詰め寄られたことを憶えていた。

「理論があるならすぐに爆弾を作れるはずではないか。お前たちは皇国精神が足りない!」「お前たちはウソを言っている。研究がはかどらないと、ウソを言っているんだ!」

 将校らは研究室に常駐するようになり、仁科を恫喝するようにして急かした。仁科を慕う若い研究者らは憤りを感じる日々だったという。

 前出の竹内はこんなことを憶えている。昭和19年の春頃、竹内の部屋にやってきた仁科は「どうだ、できるか?」と低い声で聞いた。「できません」と竹内が答えると、仁科は表情を曇らせた。「しまった、親方に怒鳴られる」と竹内は思ったが、仁科は言葉をグッと呑み込み、「できるまでやりなさい」と静かに言って去って行ったという。

 仁科の本心はどこにあったのか。仁科は戦時中でも日本の研究レベルを低下させたくなかった。そのために、陸軍を利用してやろうという絵図を描いていたのではないか。さらに、才能ある若い学者たちを戦争で失いたくなかった。「頭脳の温存」のために、あえて大見得を切って見せる――仁科にはそんなずば抜けた度量があったように思う。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(保阪正康「日本の地下水脈 日本の『原爆開発』秘話」)。