太平洋戦争下の日本で進められていた原爆開発計画は、研究を担った仁科芳雄の名前にちなんで「ニ号研究」と呼ばれた。原爆開発計画は日本の科学界に何をもたらしたのか。昭和史研究家の保阪正康氏が検証する。

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中国に渡った日本人研究者

「ニ号研究」の終わりはあっけなかった。昭和20年4月13日、米軍のB29は理研を狙いすましたかのように空爆した。福島県石川町の川べりにあったウラン鉱石採掘現場も、なぜか機銃掃射の対象になった。

 5月下旬、仁科は鈴木辰三郎に「もう研究は継続できない」と伝えた。これが事実上の中止宣言だった。一方、海軍が主導した「F号研究」にも軍からの圧力が加えられた。荒勝はもともと「研究しているふりをすればいい」との考え方だったが、湯川や坂田らを擁し、研究レベルそのものは高かった。ただ、実際の作業に力を入れていないので、製造の見通しはなかった。

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保阪正康氏 ©文藝春秋

 7月26日、連合国側は「ポツダム宣言」を発した。前出の武谷はこれを新聞で読んで驚愕した。「吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」とあるのを見て「米国は原爆開発に成功した」と悟ったと証言した。「すぐに仁科先生に知らせなければと思ったが、私は行動を軍に監視されており、外出もできなかった。もし仁科先生がポツダム宣言受諾を軍事指導者に伝えていれば、広島と長崎の悲劇はなかったかもしれない」と武谷は悔やんでいた。その言葉は前出の山本からも聞かされた。

長崎の平和祈念像 ©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 戦後、ウラン爆弾研究に携わった物理学者や軍の技術将校たちは、ある者は専門を変え、ある者は米国に渡って研究を続けた。そして、中国に赴いた者もいる。昭和20年8月下旬、厚木基地と立川基地から百数十人が中国に発ったが、原爆開発に携わった者も含まれていた。

 それから18年後の昭和38年11月、英国議会で奇妙な質問がなされた。日英原子力協定の締結に際し、労働党議員が「多数の日本人原子力科学者が中国で働いているとの情報がある」と懸念を表したというのである。その約1年後、中国は原爆開発に成功する。中国初の核実験は、日本が模索していたのと同じく、ウラン235を遠心分離法で分離したものだったという。